123.荀子 現代語訳 議兵第十五 六・七章

六章

 李斯が孫卿子に尋ねて言うには「秦は四世に渡っての優位があります。兵は四海のうちでも強い部類に入って、その威勢は諸侯に十分影響を及ぼします。ですが、これは仁義によるものではありません。ただものごとの便というものに従っているだけであります。(あなたは仁義、仁義と言いますが、それは本当に必要なものなのでしょうか)」

 孫卿子「お前の知ることではない。お前の言ってる便とは不便の便といものだ。私の言っている仁義とは大便の便なのだ。かの仁義というものは政治を修正するためのものである。政治が修まれば民衆は上に親しみその君主を楽しんで、君主のために死ぬことを軽いこととする。だから、軍に関して将卒のことは末事であると言うのだ。

 秦は確かに四世に渡っての優位があるのだけど、おどおどした様子で、常に天下が一つになって自分を攻めることを恐れている。これはいわゆる末世の兵というもので本物の統一を備えていない。

 だから、湯王が桀王の暴虐を解き放ったようなことは、鳴条の戦で破った時にあるのではない。武王が紂王を誅したのも、甲子の朝に出立してその後に勝利を得たわけではない。みな全て前から行われていたことで素が修まっていたからなのだ。そしてこれがいわゆる仁義の兵だ。

 それ故、お前はこれを本に求めず、末のことばかりを詮索しているのだ。これ(本を無視して末事を求めてばかりであること)が世の乱れる理由である。」

七章

 礼というものは治弁の極みであり、強固の本であり、威行の道であり、功名の総である。王公がこれによれば天下を得る理由となり、これによらないのならばお社さえ保てない理由となる。

 だから、固い鎧にするどい刃の兵でも勝つためには足らない、高い城や深い堀でも守りが固いとするには足らない、厳しい命令と数多くの刑罰でも威なすには足らない。その道によるのなら行われて、その道によるのなら廃することとなる。

 楚の人は鮫皮の甲冑に犀の皮を鎧としてその固いことはダイヤモンドのようであり、苑の鉄の矛はするどいこと蜂の針のようで、その動きたるや疾風のようである。そうであるけれども、軍は垂沙で大敗北して将軍の唐昧は死に、荘蹻現れてからはその統一も破れてしまった。これがどうして固い鎧にするどい刃の兵がいなかったものであると言えるだろうか、国を統一していたよりどころがその道でなかったからに他ならぬであろう。

 楚は汝水と潁水を要害として、長江と漢水を天然の堀として、訒の大森林を境にして方城山をめぐらしているが、秦の軍隊が来てエンエイが落とされたのは枯葉を払うかのようだった。これがどうして峻嶮険阻の要害がなかったと言えるだろうか、国を統一していたよりどころがその道でなかったからに他ならぬであろう。

 紂は比干の心臓を割いて箕子を捕えて、炮格の刑をして殺戮にいとまがないほどだった。臣下は皆緊張していて命が必ずあると思える者は無かった。そうであるけれど、周の軍隊が至ると命令は無視されるようになって民衆を用いることができなくなった。これがどうして命令が厳しくて刑罰が多くなかったと言えるだろうか、国を統一していたよりどころがその道でなかったからに他ならぬであろう。

 古えの兵は戟矛弓矢だけであった。そうであるけれどもこの武器を使うまでもなく皆が屈服し、城郭を修理することなく堀を掘るわけでもなく、要塞を作るわけでもなく機変の謀略を仕掛けるわけでもない。そうであるのに、国が安全で害敵を畏れる必要がなく固かったことに他の理由などない、道を明らかにして平等に分配をして、時期を違わずに民衆を使って誠の心で民衆を愛し、下が上に和していたこと影や響きのようなものであったからである。

 命令に従わない者があってそうして始めて刑罰をする、だから人に刑罰するだけでも天下が服すこととなる。罪人もその上の人を怨まないのは罪が自分にあることを知っていたからである。こういったわけであるから、刑罰が省かれても威は届くこととなる。これには他の理由などない、その道によっていたからである。古えの時、堯帝が天下を治めること、ただ一人を殺して二人に刑罰をするだけで天下は治まった。古伝に「威勢は厳しいものであったとしてもそれを振り回すことなく、刑が用意されていても用いることがない」とはこのことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■現代の世界情勢でもこの理論はさほど変わっていないのであろうが、また詳しく考えたいと思う。国家だと話は難しくなるけど、会社とかの少し小さい組織だとこの理論は全くあてはまるだろう。