124.荀子 現代語訳 議兵第十五 八章

八章

 人の行動というものは、報償のためにやっているのなら傷害のあることを見た時その行動を辞めてしまうものである。だから、賞慶刑罰勢詐といったものでは人の力を尽くさせて人を死に至らしめるほどのことはできない。

 人の君主たる者で、その下の人百姓たちに接する理由に礼義と忠信がなく、おおむね賞慶刑罰勢詐ばかりを拠り所として、下々を苦しめてその苦労のたまものである功績だけを得るのならば、大軍が押し寄せてきたとき、この民衆に危ない城を守らせれば必ず離反することとなり、敵と遭遇して戦場に居らせれば必ず敗走することとなり、苦労させ煩わせ辱めれば必ず出奔することとなる。きっぱりと上と下で離れることとなり、下が反対に上を制することとなるだろう。だから、賞慶刑罰勢詐は雇われ商いの道であるのだ。これによって大衆を合して国家を美しくするには不十分である。

 こういったわけであるから、古えのひとはそれを恥として口にすることがない。だから、徳音を厚くして民衆を先導し、礼義を明らかにして民衆を導いていき、忠信を致して民衆を愛し、賢者を尊んで能力者を使って民衆に序列を設け、爵録と表彰によってこの序列を明らかなものとし、事業は適切な時期にやらせ任せることも軽くしてこれを調整し、民衆を保つこと赤子を保つかのようにする。

 このようにして政令が定まって風俗が既に一つのものとなっているのに、それでもなおこの風俗から逸脱してお上に従わない者があれば、百姓でもこれを忌み嫌って害毒として、この者を不吉なことをお祓いするかのようになるのである。このようになってからやっと刑罰が起こるのである。これが大刑罰が加わるところであって恥辱はこれより大きなことはない。それとも刑罰があると利があるのだろうか、そこには何の利益もないのである。その身がいやしくもよほど狂乱者でなければ、誰がこれを見て己を改めないだろうか。このようになってから、百姓は朝日を見るようにこのことを知って、皆が上の法律に従って上の思いをくみ取って安楽することを知るのである。

 このような状態で善に感化されて善く身を修めて行動を正し、礼義を積んで道徳を尊ぶ者があるのならば、百姓もこの人を貴び敬うようになって親しんで誉めることとなる。こうして始めて表彰が発生するのである。これが高位豊禄が加わるところであって栄えることこれより大なることはない。ここに害があるだろうか、高位豊禄を持つことができるのである。生きている人であればこれを願わない者はないであろう。

 明らかな様子で、貴爵重賞を前にかけて、明刑大辱を後ろにかけるのなら、感化させないでおこうと思ってもそれができるだろうか。この故に、民衆がここに帰することは流れる水のようで、止まるところは治まって為されるところでは桓化して、力任せの乱暴者の人たちもこのために感化されて素直になり、邪に偏ってずるいことをする人もこのために感化されて公平になり、せっかちで喧嘩好きな人もこのために感化されて調和するのである。こういったことを大化致一と言う。詩経 大雅・常武篇に「王様のはかりごと 誠にここに満ちまして 遠く徐の方も ことごとくこちらにいらっしゃる」とあるのはこのことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■最近、荀子を尚友とするため史記を読んでいるのだけど、あの時代にこの理論を堂々と述べていたとしたら、荀子は相当のものであると思う。例えるなら、現代で企業は利益を優先してはならない、と説くようなものである。どこにそれを信じる賢明な社長がいるだろうか?だが、荀子は50才までの学問を経て、この理論を確立させ、それを実現すべくこれを遊説したのである。見習わなければならない。