36.学問のすすめ 現代語訳 八編 第三・四段落

第三段落

 このような次第で、人たる者は他人の権利を妨げなければ、自由自在に自分の身体を用いることに正しい理があるわけである。好きなところに行き、そうしたいと思うところに止まり、あるいは働き、あるいは遊び、あるいは事を行い、あるいはかの業をして、あるいは昼夜勉強するのも、あるいは意に叶わないのなら無為に終日寝るのも、他人に関係ないことであるからには、横からああせよこうせよと議論することは的外れなのである。

第四段落

 もし今、この説に反して、人たる者は理非に関わらず他人の心に従って事をするのであって、自分の了見を出すのはよろしくないという理論を立てる人がいたとする。この理論は果たして正しいのだろうか。もしも、その理論が正しいのならば、おおよそ人と名の付いている者の住んでいる世界で、その理論は通用するはずである。

 仮にそのことについて一例を挙げてみる。禁裏様(天皇)は公方様(将軍)よりも貴いからには、禁裏様の心でもって公方様の身を勝手次第に動かし、行こうとすれば止まれと言い、止まろうとすると行けと言い、寝るのも起きるのも飲むのも食べるのも自分の思いのままにはできないということになる。

 そして、公方様はまた手下の大名の身を制していて、自分の心で大名の身を取り扱うことになる。大名はまた自分の心で家老の身を制していて、家老は自分の心で用人の身を制していて、用人は徒士を制し、徒士足軽を制し、足軽は百姓を制するということになる。

 さて、百姓まで来ると下の者がいないから当惑してしまうようなものであるのだけど、元来この理論は人間世界一般について通用する当然の理に基づいたものであるからには、百万遍の道理で、まわれば元に帰らざるを得ない。すると、百姓も人であり、禁裏様も人であるからには、遠慮はなしと御免蒙って、百姓の心で禁裏様の身を勝手次第に取扱い、行幸あらんとすれば止まれと言い、行在に止まろうとすれば還御と言い、起居眠食すべて百姓の思いのままで、金衣玉食をなしにしてしまって麦飯を勧めるということになったらどうなのか。

 このようであったら、すなわち日本国中の人民が、自分で自分の身を制する権利がなくして、むしろ他人の身を制する権利を持つということになってしまう。そして、人の身と心とは全くその居るところが別となって、その身はあたかも他人の魂を入れている宿屋のようなものになってしまう。

 下戸(お酒に弱い人)の体に上戸(お酒に強い人)の魂を入れて、子供の体に老人の魂を止め、盗賊の魂は孔子様の身を借用し、猟師の魂はお釈迦様の身で宿泊して、下戸が酒を飲んで愉快を尽くせば、上戸は砂糖水を飲んで満足だと唱え、老人が木によじ登って遊んでいると、子供が杖をついて人の世話を焼いて、孔子様が弟子たちを率いて盗賊をすると、お釈迦様が鉄砲を持って殺生をしに行く。

 奇なり。妙なり。また不思議なり。これを天理人情と言えるだろうか、これを文明開化と言えるだろうか。三歳の子供でもその返答は簡単にできる。

 数千百年前の昔から和漢学者の先生が、上下貴賤の名分だとやかましく言うのであるけれども、詰まる所は他人の魂を自分の身に入れるような話なのである。こういったことを教えて説いて、涙を流してこれを論じ合い、末世の現在になってその功徳もようやく現れて、大は小を制して強が弱を圧する風潮となったからには、学者先生も得意な顔をして、神代の諸尊や周の聖賢も、草葉の陰で満足しているというものである。今、その功徳のうちの一、二を挙げることは次のようなものである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■この儒学に対する批判は、極論というもので後で福沢自身の擁護もあるから、特に何も述べないでおく。▼「神代の諸尊や周の聖賢」というのは、孔子が手本にしたとされる古の人のことである。神代の諸尊とは、堯舜兎という三帝のことと思われる。孟子論語そのほか、書経、などに詳しい。私の知る限りで、この三帝の話はほとんど神話じみていて、特に兎に至っては黄河揚子江を切り開いたというような記述がある。その半面で、原始社会にありそうな現実的な逸話もあるから、伝説などを想像と交えて周代にまとめられたものと思っている。周については、現代の歴史学的にも立証されていて、春秋戦国時代、つまり孔子の活躍する前の時代にシナを平定したとされている。この時代はわりと平和だったようだ。この時代に特に聖賢と言われるのは、文王、武王、周公。

■それにしても、福沢のアイロニー皮肉的描写は面白いと思う。こうやって、当時の常識をひっぺがそうとしたのだろう。これは当時からすると恐らく、ものすごい反感を買うようなことと思う。今で言うならば、AKB48の弊害を挙げ連ねた挙句に、解散しろというようなものか。