35.学問のすすめ 現代語訳 八編 第一・二段落

我心をもって他人の身を制すべからず

第一段落

 アメリカのウェイランドという人の著した「モラルサイヤンス(moral science)」という本には、人の身心の自由を論じたところがある。その論の大まかな意味はこのようなものである。

 人の一身は、他人とは離れてそれひとつの全体を成し、自分でその身を取り扱い、自分でその心を用いて、自分一人を支配して、務めるべきことを務めるはずのものである。だから、次の五つの事がらについて考えなければならない。

1.人にはそれぞれ自分の身体がある。身体は外物に接してその求めているところを得なければならない。たとえば、種をまいて米を作ったり、綿花を取って衣服を作るようなことである。

2.人にはそれぞれ智恵がある。智恵とは物の道理を発明して、事を成す上での目途を誤らないことである。たとえば、米を作るのに肥やしの方法を考えたり、木綿を織るために機織り機を工夫するようなことである。

3.人にはそれぞれ欲がある。欲は身心の働きの動機となり、この欲を満足させることで一身の幸福を成すことができる。たとえば、人であって美服美食を好まない者はいない。けれどもこの美服や美食は勝手に天地の間にできるものではない。これを得ようとするなら人の働きがないというわけにはいかない。だから、人の働きというものは、大抵の場合、この欲に催促されて起こるものである。欲が無ければ働きもあるはずがなく、この働きがなければ安楽の幸福もないのである。禅坊主は働きもなくて欲もないものと言うべきものである。

4.人にはそれぞれ至誠の本心がある。誠の心は欲を制して、その方向を正しくして止まるところを定めるものである。例えば、欲というものは際限が無く、美服美食もどこが十分であるのかという境目は定め難い。もしも今、働くべき仕事を捨て置いて、ただひたすらに自分が欲しいと思うものを手に入れようとすれば、他人に害を為して自分の身を利するより他に道はないわけである。これは人間の所業と言うべきものでない。こういったときに当たって欲と道理とを分別し、欲から離れて道理の中に入れようとするのが誠の本心である。

5.人にはおのおの意思がある。意思は事をする志を立てるものである。たとえば、世の中にはけがのはずみでできるようなものはない。善いことにせよ悪いことにせよ、皆、人のこれをしようという意があってこそできるものである。

第二段落

 以上の五つのことは人に欠くことのできない性質であって、この性質の力を自由自在に取り扱って、そうして一身の独立がなされるのである。さて、独立というと、独り世の中の偏人奇物で世間との付き合いもないもののように聞こえるけれども、決してそうではない。人として世に居れば、朋友がないというわけではないけれども、その朋友でも自分との交わりを求めることが、なお自分がその朋友を慕うようであれば、世の交わりは相互いのこというとになる。

 ただ、これらの五つの力を用いるに当たって、天によって定められた法に従い、分限を越えないことが緊要なのである。そしてその分限とは、自分もこの力を用いていて、他人もこの力を用いていて、相互にその働きを妨げていないことを言っている。このような人たる者の分限を誤らないで世を渡るときには、人に咎められるようなこともなく、天に罰せられるようなこともないのである。これを人間の権利というのだ。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■本文とは関係ないが、この現代語訳のような作業は、非常に脳の活性化につながるように思う。ここ一カ月続けているが、明らかに記憶力と、また、知識の引き出しスピードが上がっているように思う。以前、テレビで、脳トレゲームを開発した先生が、脳の「差動記憶」(少し違うかも)を使うといい、とか言ってた。つまり、少しの時間だけ、何かを記憶しておいて、それを後で吐き出すという作業のことである。まさにこの現代語訳は、その作業そのものである。この現代語訳を始めたころは、これだけの文章量を書くのに、最低でも二時間以上はかかっていたが、現在では一時間程度に短縮されている。この効果は、私にとって副次的なものであったけど、この目的のためにだけ、こういったことを続けることも決して損なことではないであろう。ただし、継続的にやらなければならない。「念願は人格を決定す、継続は力なり」「Continuous is Power」▼要約のような作業は、前やっていたのだけど、今の自分のキャパを越えている部分がある。なぜなら、その差動記憶を駆使したうえで、論理を正確に読み取り、その構造を壊さないようにして再構築しなければならないからだ。我ながら、自分のやった要約活動は、なかなか人にはできないことと思っている。また再開するつもりではあるのだけど。

■冒頭の部分を読むと、現在の自由があることとそうでない場合との違いがこういった表現で捉えれるように思う。「昔、自分は社会の構成員でしかなく部分でしかなかった。しかし、この自由独立の概念が常識となってから、私は社会の構成員であり部分であると同時に、私個人という全体でもあるようになった。」中国では現在でも、身心の束縛があるそうだ。だから、自分の身も心も国家の一部分として差し出しているわけである。しかし、われわれは違う、自分の身と心は、それ一個とした全体であり、この全体のうちの一部分を自分の意志で国家に差し出しているのである。その差し出している一部分とは、ほとんど労働の一部である貨幣や、その労働に割いている時間ということになる。しかも、われわれはそれを自分の意志で差し出しているのだ。日本の制度が気に入らないのならば、「マルチルドム」になってもいいし、海外に移住するのも良かろう。それが意思であり、自由という精神であると思う。