164.荀子 現代語訳 正名篇第二十二 六章

六章 ※重要にして難解な部分なので、便宜上(1)という節番号を付ける

(1)
 そもそも、治について語りながら、欲が去ることを待っている者は、欲を道びくことをしないで、ただただ欲があることに困っている者である。(凡そ治を語りて欲を去ることに待つ者は、以て欲を道びくこと無くして欲あることに困しむ者なり)
(2)
 そもそも、治について語りながら、欲が少なくなることを待っている者は、欲を節する(ちょうどよく調節する)ことをしないで、ただただ欲が多いことに困っている者である。(凡そ治を語りて欲を寡くすることに待つ者は、以て欲を節すること無くして欲の多きことに困しむ者なり)
(3)
 欲があることと欲がないことは、別次元の話であり、人の生まれ持った性にそもそも備わっているだけのことであり、治乱とは全く関係のないことである。(欲あると欲なきとは異類なり、性の具なり、治乱には非ざるなり)欲が多いことと少ないこととも、別次元の話であり、それは情を推し計ることで数字のように明らかになることであり、治乱とは全く関係ないことである。(欲の多きと欲の寡きとは異類なり、情の数なり、治乱には非ざるなり)

 欲は、得ることを待たない、つまり、欲とは目的に向かって一直線に向かうものである。しかし、求める者は可能なことについてだけ欲に従って行動する。欲が得ることを待たないのは天から受けることである。これに対して、求める者が可能なことについてだけ欲に従って行動するのは、心の計から受けることである。天から受けた一つの欲は、心から受ける多くの計に制されることとなる。そして、この心の働きを天から受けた欲と同類であるとするのは難しい。
(4)
 ところで、人の欲することは生が最も甚だしく強く、人の忌み嫌うことは死が最も甚だしく強い。そうであるのに、人の中には、生きていることを否定して死ぬ者もあるのはどうしてだろうか。こういった者は、生きることを欲することがなくなって、死ぬことを欲しているのではない。生きることができなくなって、死ぬことはできるだけなのである。

 だから、欲は現状に過ぎて生きることを望んでいるのに、実際には現状に及ばず生きることをやめるのは、心が生きることをやめさせているだけなのである。このように、人の最も強い欲求である生きたいという欲でさえ心で制されるのである。そうであるのならば、心がそうするべきだと判断することが理に中たるようになれば、欲がどれだけ多かったとしても、どうして治が損なわれることがあるだろうか。

 また、死にたいという欲求はそもそもないのに、実際の行動で死を選ぶのは、心が死を選んでいるのである。このように、人の欲が最も忌み嫌うものさえ、心は選ぶのである。そうであるのならば、心が理を失ってしまえば、欲がどれだけ少なかったとしても、どうして乱れが終わるということがあるだろうか。

 だから、治乱は、心が判断して選ぶところにあるのであって、情が欲するところにあるわけではない。そうであるのに、これをその在るところに求めないで、これをその亡いところに求めるのならば、「自分はこれを得たのだ」と言っていたとしても、それはこれを失っているのだ。

 性とは天がそのようにしたものである。情とは性の素地であり本質である。欲とは情に応ずるものである。(性なる者は天の就せるなり。情なる者は性の質なり。欲なる者は情の応なり。)欲していることを事実そうしたいと思ってそれを求めるのは、情の免れ得ないところである。そして、それをよしとしてこの欲を道びくことは、必ず知から生じることである。
(5)
 だから、門番であったとしても欲を去ることはできないし、天子であったとしても欲を尽くすことはできない。(守門なりといえども欲は去るべからず、天子なりといえども欲は尽くすべからず)欲を尽くすことはできないが、尽くすのに近くすべきである。欲を去ることはできないが、求めることは節するべきである。

 欲していることを尽くすことができないといっても、求めている者はそれにも関わらず尽くされるのに近くしようとし、欲は去ることができないといっても、求めていることが全て得られるわけではなく、結局は慮りが求める気持ちを節することとなる。

 道というものは、進んでは尽くすに近くし、退いては求めを節する。天下でこれに及ぶことはない。(●道なる者は進みては則ち尽くすに近くし、退きては則ち求めを節す。天下これに若くは莫し。)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■(1)これは例えば、こういった例え話にできるだろう。昨今は、原発の是非につて、熱心に訴えている人もいるが、だいたいの原発否定派の人は、「原発は悪いから駄目だ」と、原発肯定派の人を頭ごなしに否定する。これが、欲を去ることに待つ者の典型例である。こんなんでは、誰も納得しない。原発肯定派の人は、大体の場合「経済を良くしたいという欲」によって原発肯定派なのである。そうであるのに、そんなことは知らぬ存ぜぬで、原発を否定するならば、否定された人は「経済を良くしたいという欲」を否定されるだけである。だから、この暴力とも思える自己否定を食らった肯定派の人は、当然に「原発はあった方がいいに決まっている」と居直るであろう。そして、この原発否定派の人は、「どうしてこの人を説得できないのか?ああ、あの人が心を改めてくれるといいのに」と困ってしまうのである。そうであるならば、この「経済的に良くしたいという欲」を導くことが治に繋がるのである。これが、「欲を去ることに待つ者」と「欲を道びく者」の違いである。

■(2)人の欲や、気持の多少は、簡単に測れない。特に、社会的なこと(治)にこの荀子の言葉を応用する場合、これを個人的なことに例えていると、余計に意味が分からなくなると思う。だから、二重の例えになるけど、この「社会にある人の欲」を川の水の量として例えたいと思う。▼人の欲の多少というのは、個人差があるが、それが社会に大きな影響を及ぼす場合は、大抵、多くの人が同じ欲を多く抱えているときである。だれか一人だけに大きな欲がある場合、それも社会に影響を及ぼすが、その範囲がかなり限られていることは、わかっていただけると思う。というのも、総理大臣が社会をこのように変えたいと一人で夢想していたところで何も起きないことは、簡単に察しがつく。だから、多くの人が同じ欲求を多くもったときに、この欲が川を流れる水となって、流れ出すのである。そして、この水つまり欲が多くて困っている状態というのは、つまり、川が氾濫した状態である。こういった場合は、当然に川上にダムなどの水門を建設することになるだろう。これが「欲を節する」という行為である。つまり、欲の根源にさかのぼって考えて、水の量がまだ少なくて対処できるところでこれに対処することが「欲を節する」という行為であるのだ。だから、「欲が少なくなることに待つ者」とは、ただ茫然自失として、氾濫した川を見つめ、何もしない人のことである。これに対して、「欲を節する者」とは、川上までさかのぼってみて、そこで水の量を調節しようとする人のことである。そうして、少しでも川下の氾濫を抑えようとするのだ。▼また、先の「欲を道びく」という考え方も、この川の流れの例えで説明することができよう。つまり、川からあふれた水が、自分の家を直撃するような方向で流れてきていた場合、「欲を去ることに待つ者」は、茫然自失して水が過ぎ去るのを待つ者や、水を力ずくでせきとめようとする者のことであり、後者の場合、相当な労力が必要であることが了解できると思う。挙句の果てには失敗する可能性が高いことも目に見えている。これに対して、「欲を道びく者」は、水の流れを導くことを考える。つまり、自分の家に流れてきた水を、地形の高低を考慮に入れたうえで、別の水路などを築き、自分の家の方に来ないようにするのである。流れてきている水を、ただ見つめるのと、受け止めるのと、自分の害にならぬように受け流すのと、どれが良い方法か、ということは想像に易いことである。

■(1)(2)これらのことに関わりが深い論語の一節として次の語句が挙げられるであろう。論語 陽貨第十七「子曰く、飽食終日心を用ふる所なくば、難いかな。博易なるものあらずや。之を為すは猶已むに賢れり」現代語訳「先生が言った。腹いっぱいにして一日中何も考えず心を使わないのなら、(成長するということは)難しいであろう。すごろくなど(学問ではないが心を使うもの)もあるではないか。(何も心を使わずにぼーっと一日を過ごすくらいなら)これをやっていた方がまだましというものである」▼これは欲を道びくということに関係が深かろう。

■(1)(2)言志録(佐藤一斎)にもこんな部分がある。74章「平和な日々が続くと、人が楽しむような事はだんだんと多くなるもので、これは自然の勢いというものである。自然の勢いとは、天の働きであって人力ではどうしようもないことである。若い男と女が集まって歌い踊るようなことも所々で見られるようになってくる。しかしこれを完全に禁止してはならない。これを無理に禁止すると、人の気が抑圧されてしまって、発散するところがなくなってしまい、伏しては邪なことをすべて隠し、人目につかないところでこすずるい悪事をして、あるいはこれらが結びついて酷い毒の傷口となって、その害が甚だしいものとなってしまう。だから、政治をする者は、人情を斟酌勘案して、こういったことを禁止することと禁止しないことの間に置き、そうすることによって、甚だしい害が出ないようにする。これが時代に順応した政治である。

■(2)ちなみに、「節する」とは、減らすばかりのことではない。節とは、易経において、川を水が流れる象として説明されている。これを念頭においた上で、水門を思い浮かべていただきたい。水門を調節するとき、人はどういった操作をするだろうか。「開け閉め」するであろう。欲は寡ければいいというものではない。かと言って、多ければいいというものでもない。時と場所に応じてちょうどよく「節せられていること」が求められるのである。

(この部分はかなり精密な議論のため、飛ばして、次の■から読むのをお勧めします)
■(3)ここで重要なのは、「異類」をどのように訳すのかということである。これは2つの意味で二重に捉えるのが良いと思う。つまり、類には2つの意味があり、ひとつは「人類としての共感作用」のこと、もうひとつは「同じ法則によって細かいことまで規定される同類であること」である。ここでさらに、主語の「欲あると欲なきと」「欲の多きと欲の少なきと」も、二重に捉えなければならない。ひとつの捉え方は、欲があること欲がないことの2つが異類であること、次に、欲がある欲がないという議論と、治乱などの議論が異類であること、こういった意味での二重の捉え方である。よって、組み合わせによって4つの意味が生まれることになる。▼1.欲があることと欲がないこと、この2つのことをどう感じるかは、個人の価値観によって共感作用が全く通じない異類なものであるということ。これは例えば、スリランカのお坊さんのような人からすれば、子供をほしいと思う欲があることは、卑しいことである。よって、その僧侶の集団の中では、子供を欲しいと思う欲は、ないことがよしとして共感される。これに対して、老齢の一般的な日本人からすれば、自分の孫はなんとかして欲しいわけで、こういった場合、その老齢な人の子供も子供を欲しいと思っている場合、この家族内では意見が一致して共感されることになるのである。よって、欲があることと、欲がないこと、この2つは、異類の共感作用によって是認されるのである。▼2.欲があることと欲がないこと、この2つのことは同じ法則によって語ることができない異類のものであるということ。例えば、ほとんどの人は食欲を持っているだろう。これは「生きていくには食欲が必要だ」という法則によって一様に語ることができる。これに対して、例えば、学問をすることについての欲求がない人になぜそういった欲求がないのか語る場合、「生きていくには学問が必要だ」という法則によって、この学問がないことの欲求を語ろうとすると、この理論では、全てを語ることはできなくなる。なぜなら、「学問する」とは「生きるための知識を身につけること」であるのに、その人には学問する欲求がないのであるから、「生きるためには学問する欲求が必要だ」という食欲の場合に応じた理論がたちまちにして破綻してしまう。だから、食欲があることと、学問する欲求がないこと、この2つは、異類の法則によって説明されるべき命題なのである。▼3.欲があることと欲がないこと、この欲の有無に関する議論についての共感は、治乱に関する議論、長短に関する議論、有無の議論などとは、全く別の共感作用によって是認されることである。例えば、アフリカの奥地に住む村長と、日本の村長が治乱に関する議論で全く同じ見解を持ち、村の治め方についてお互いに共感したとする。しかし、このアフリカの奥地では、虫を食べることが習慣であって、ゴキブリなどは大のごちそうであったとする。こういった場合、アフリカの村長はゴキブリに対してものすごく食欲を感じるわけであるが、日本の村長は食欲を感じないであろう。このように、欲があるのかないのかに関する共感と、村の治め方に関する共感とでは、異類の共感作用によって是認されることなのである。▼4.欲があることと欲がないこと、この欲の有無に関する議論は、これだけで独立していて、治乱に関する議論、長短に関する議論、有無の議論とは全く別の法則によって語られること。これは長短に関する議論や、そこに100円玉があるのかないのかという議論と、欲があるのかないのかという議論を比べていただければ、簡単に察しがつくであろう。欲があるのかないのかということを語る場合には、欲を数字で表すことはできないし、ましてや目で見ることはできない。そうであるのに、長短や100円玉があるのかないのか、といった議論は、数字で確認したり、目で確認したりすることができる。こういったわけで、欲の有無に関する議論はそれだけで全く独立した、他の議論とは異類の法則によって語られる議論なのである。

■(3)これらのことを考えた上で、再度翻訳を行うと、「性の具なり」、「情の数なり」という部分の意味も自ずとわかりやすくなるであろう。
▼欲があるのかないのかということ、または欲があるのかないのかという議論自体が、個人の価値観によって全く違った受け取リ方ができることであり、それを語るための法則もその各々で全く独立した一つの法則となる。欲があるのかないのかということは、単に性(生まれながらにして持っている性質、または生きていくために自然に順応した性質)に備わっていることでしかないのである。だから、欲の有無は、治乱とは全く関係がないことである。(欲とはそもそも自然に備わっている性に具備されているだけのことなのだから、他のことと混同した挙句に、そもそもある欲を無闇に無くそうとか有るようにしようと議論することは不毛なことである。)
▼また、これと同様に、欲が多いのか少ないのかということ、または欲が多いのか少ないのかという議論自体が、個人の価値観によって全く違った受け取り方ができることであり、それを語るための法則もその各々で全く独立した一つのものとなる。欲が多いのか少ないのかということは、単に情(感情、後に出るが「情なるものは性の質なり」、つまり、性に応じて発せられる質:きじ:飾り気のない本質)から機械的に導かれるだけのものでしかない。だから、欲の多寡は、治乱とは全く関係がないことである。(欲が多いのか少ないのか、ということは、性情に応じて導かれる結果でしかないから、他のことと混同した挙句に、そもそもある欲を少なくしようとか多くしようとか議論することは不毛なことである。)

■(3)仏教の苦集滅道の苦諦と同義とも言える。なぜならば、ここの主旨は、欲についてのことを、ありのまま全く独立した議論として受け入れることを勧めているからである。

■(4)この最後の部分や、治乱を題材としていることからも、荀子は、墨家を意識してこのような理論を立てたことは間違いないと思う。墨家の主張は、音楽を捨て質素倹約を旨として、博愛を推奨するというものであった。この墨家の理論構成が、「人の欲を否定すること」「人に博愛の気持ちがないこと」に目をつけて、そこから構築されているであろうことは、想像に易いことである。しかし、これらのことは、一般的なことに十分通じることである。

■(1)〜(4)いろいろ解説が長くなったが、荀子の考え方をまとめると、こういったことになるであろう。そもそも、欲というものは、それだけで独立したものなのであり、欲は欲としてありのままに受け入れなければならない。また、欲は天から否応なしに備えられたものであるから、そもそもどうすることもできない。だから、欲を受け入れることから全ては始まる。次には、この欲に勝る心の働きに注目する。そうして、この心の働きが、理(ことわり)に中(あ)たるようになれば、欲があろうが多かろうが、それは問題でなくなるとする。ここで、強く主張されていることは、「欲」と「心の働き」が別のものであるということである。確かに、これらのことは、人間の精神の中で複雑に絡み合って、しかも目に見えないから、2つに割ることが適切であるかもわからないし、それができるのかも分からない。だから、多くの人が迷うところであり、はっきりできない部分でもある。いつも言い切る荀子も、「天より受くる所の一つの欲は、心より受くる所の多くの計に制せらる、固より天より受くる所に類し難きなり」として、「類し難きなり」という「そのように考えることは難しい」という表現に止まっている。はっきりするのならば、「異類なり」「類できず」と表現するであろう。

■(5)欲を「去る」欲を「尽くす」という言葉に注目して読むべきであろう。というのも、荀子はここで絶妙な表現をしているからである。門番のようないやしい身分の人は(当時、門番は足切りの刑を受けた罪人である場合が多かった)欲を実現することができないから、欲を去るべきである。これに対して、富貴の極みである天子は、欲を尽くすべきである。と来れば、ほとんどの人が、この「尽くす」を「やり尽くす、実現し尽くす」と読むであろう。事実、岩波文庫版もそのように訳してある。しかし、天子とは、荀子の定義で、徳ある人のことであった。その人がやりたい放題をしていいのだろうか?そんなはずはない、だから、欲を「尽くすに近くす(無くすことはできないがそれに近くする)」のである。「尽くす」は、「欲をことごとく果たし尽くす」「欲自体を無くし尽くす」という絶妙な掛詞である。▼また、「守門」というのも、「欲を去る」ことの状況にうまく合わせて出した例えである。欲は、無くすことはできない天から備わったものであることについては、今までの部分でも度々述べられている。つまり、人が欲から去って、人の欲がなくなるということはあり得ない。だから、その求めを節する門番(知慮)が必要なのである。

■この内容が、どうして正名篇に記されているか?ということは、多くの人が疑問を感じると思う。今までのように、荀子が「名を正すこと」について語っていないのは明白であるからである。しかし、ここにある内容は、私は非常に「正名篇」と関係が深いと思う。というのも、この内容、「正名」が無ければ読みこなせないからである。一つ一つの言葉を正しく理解しなければ、内容を理解することはできないのだ。