(★注意★オカルト)私は阿弥陀仏を見た!  1.仏とは何か 

はじめに
このシリーズには何の根拠もありません。単なる私の中で納得できることです。この前の「オカルトとデカルト」が人気だったようで、それを受けて、前に書いたものを転記しました。

仏とは、正しく目覚めた人 という意味である。

それで「正しく目覚めた人」がなんであるのかというと、善悪を越えて全ての因縁から解き放たれた者のことである。

仏は正直、いいもんでもわるもんでもない。もう何とも全く関係なくなった、無味無臭、なんも面白いこともつまらんことも苦しいこともない、ほんとに「なんもなくなってしまった人」のことである。

「なんもなくなってしまった人」は、ほんとに全部無くなってしまっている。例えば、「ああしたい」とか「こうしたい」とか一切思わない。つまり、考えることのもとすら無くなっている。だから、恐らく説法する時は、考えるという行程すらなく「自然に」口から言葉が出ていたのだと思う。

そんな「なんもなくなってしまった人」も、人である以上、「人の体」と「自分が生きている」ということだけは無くすことができない。これが、この「なんも無くなってしまった人」にとっての最後の煩いであり、最後の束縛なのである。

だから、この「なんもなくなってしまった人」が人としての体を捨てるとき、これがほんとに「なんもなくなってしまうとき」であって、この「なんもなくなってしまうこと」をニルバーナ(入滅)と言う。

だから、仏は、ニルバーナに入ると同時に「ほんとになんもなくなってしまう」のであって、どこにも存在しなくなる。

だけど、ここからが難しいところで、「ほんとになんもなくなってしまう」ことは、逆に「無限に存在すること」と同時にしか成立し得ない。何故かというに、なんもなくなると言うこと自体が「本来なら」あり得ないからである。

例えば、原子の中にあると言われている陽子。この陽子と陽子が衝突して「なくなってしまう」時でさえ、そこからは光子とかニュートリノとか、そういったものが出るに過ぎないのである。こんな感じで、人間の知っている全部のものは、大体「完全になくなってしまう」ようでいて、実は「分裂したりして存在している」に過ぎない。

だけど、その常識を覆してあり得ない状況に入るのが仏であり、そのあり得ない状況では当然のようにあり得ないことが起きているのである。それで、このあり得ないはずの起きていることが「なんもなくなっていると同時に限りなくいっぱいある」という、もはや想像できない状況なのだ。「限りなくいっぱいある」側から仏のことを説明すると、「全宇宙と完全に同化する」ということになる。

では、どうして、仏典には、観無量寿経阿弥陀仏を観ずるためのお経)のような、仏の容姿について語るお経があるのだろう。という話になる。なぜなら、仏は基本的に「なんもなくなってしまっている」はずなのに、どうやってそれを見ようとするの?となるからだ。

ここまで来ると分かるように、仏が守護霊となったり、仏が目の前に現れたりすることは、本来ならあり得ない。何回も言っているけど、仏の語ったほんものの仏は、基本的に「なんもなくなってしまっている」からである。