荀子 現代語訳 正名第二十二 七章-前

七章

 そもそも人は、必ず、そうしたいと思う可能な所に従って、そうしたいと思わない不可能な所からは去るものである。道が最高のものであると知りながら、それでも道に従わない者などは居るはずがない。

 これを例えると、人がいて、南に向かおうと欲して南行に伴う困難を多いと思わず、北に向かうことを忌み嫌って北行に伴う困難を決して少なくないと思っていたとする。こういった場合に、南に向かうことをやり通せないからという理由で、南に向かうことをやめて北に走るということがあるだろうか。いや、そのようなことはあり得ない。

 また、今、ある人が、こうしたいと思うことに伴う困難を多いと思わず、忌み嫌うことに伴う困難を決して少なくないと思っていたとする。こういった場合に、欲していることをやり遂げることができないからという理由で、こうしたいと思うことを実現する道を離れて忌み嫌うことを取ることがあるだろうか。いや、そのようなことはあり得ない。

 だから、道のことをそうしたいと思う可能なものであると思って、道に従っているのならば、この人を損ない乱すことができるものなどはない。これとは逆に、道をそうしたいと思わない不可能なものであると思って、道から離れるのならば、この人を益して治めることができるものなどない。

 この故に、知者はただ道のみについて論ずる。小家や珍説の願う所は皆衰えてしまうのだ。

 そもそも人が何かを得るとき、その欲していた物が他のものを伴わない純粋な形で、自分の元に来ることはない。また、人が何かから去るとき、その忌み嫌っている物が他のものを伴わない純粋な形で、自分の元からどこかに行くことはない。だから、人が動くときには、必ず権(標準・はかりの基準)が用いられることになる。(●人動くとして権と倶にせざることなし。)

 もしも、天秤が正しくなかったとき、重い物でも上になって人はそれを軽いものであると思い込み、軽い物でも下になって人はそれを重い物であると思い込む。これ(天秤が壊れていること)が人の軽重に迷う理由である。

 また、権が正しくないのならば、禍も欲しているものと合致することとなりこれを福と思い込み、福も忌み嫌うことと合致することとなりこれを禍と思い込む。これ(禍福の基準がおかしいこと)が人の禍福に迷う理由である。

 そして、道というものは古今の正しい基準なのである。(●道とは古今の正権なり。)道を離れて内で自分勝手な選択をするのならば、禍福が合致するところも分からない。

 これを例えてみると、交易をしている人が、一を一に交換した場合、人は「得ることもなく失うこともなかった」と言い、一を二に交換した場合は「失うことがなくて得ることがあった」と言い、二を一に交換した場合は「得ることがなく失うものがあった」と言うであろう。

 計数する人は多い方をとって、謀りごとをする人はそのほうがいいと思い可能であることをとる。二を一に交換する人がいないのは、計数に明らかであることによる。道に従って謀り事をすれば、一を二に交換するのと同じようなものである。何を失うことがあるだろうか。道を離れて内で自分勝手な選択をするならば、二を一に交換するのと同じようなものである。何か得るものがあるだろうか。

 百年の欲を一時の嫌に交換すること、このようなことをするのは、その計数に明らかでないことによるのだ。(●其の百年の欲を重ねて一時の嫌に易うること、然も且おこれを為すは、其の数に明らかならざればなり)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■「そうしたいと思う可能なこと」「そうしたいと思わない不可能なこと」は、原文では「可」「不可」となっている。これは「よしとすること」「よしとしないこと」と訳されることが多いが、意味を明確にするために、そのように訳した。

■南に行く人と北に行く人の例えがあるが、当時のシナにおいて、南は政治を執り行う人が向く方向であり、北は戦争における敗北や遁走のことであった。

■「合致する」は、原文では「託される」である。

■最後の一文、「百年と一時」は、非常に含味すべき言葉である。これも二重の意味がある。ひとつは、「百年の恋のような強い願望を、一時の選択の失敗で、将来実現不可能なものとしてしまうこと」、もうひとつは、「百年の時間をかけて積み重ねたものを、一時の選択の失敗で全て失ってしまうこと」である。そして、こういった選択の失敗を起こさないための正しい権こそが道であるのだ。

■世の中には「権力」という言葉がある。私が以前働いた職場で、この「権力」と非常に関わり合いの深いできごとがあった。そのときに私が痛感したことは、「権力とは弱みの握り合いの結果でしかない」ということである。つまり、この場合の「権」とは、「人の弱みが何かを知るための基準」であったということになる。この基準が力と結びつくと政治屋郷原論語に出てくる言葉で地元の実力者のこと)が大好きな権力となるわけである。では、「権利」とは何かといえば、「利をはかるための基準」ということになる。だから、人は「権利だ、権利だ」と言って、自分の利益を主張する。本当の権利を主張するためには、道に適った「利」を明らかにしなければならない。