デカルトとオカルト

デカルトとオカルトこの一字違いの2つの言葉、文字としては一文字しか違わぬが、全く反対と言ってもいいほどのものである。その全く異なった意味とは正反対に、このあまりにも似た語呂によって、ついついこのくだらないダジャレ「デカルトとオカルト」という題名を思いついてしまったのだ。

さて、デカルトの説明から始めよう。そもそも、デカルトとは、17世紀、つまり今から400年ほど前に活躍した学者のようなフランス人のような人であった。「ような」人というのは、現在の学者とは全く違う生活を送っていたし、生まれはフランスであったが、その生涯のほとんどをオランダで過ごしたからである。

デカルトの生涯を簡単に説明すると、病弱な体で生まれ、親と死に別れたりするも、お金に不自由のない家庭で育てられて、15歳位から20歳位まで当時の最先端の学校に入学し、教育を受ける。とても色白で、見るからに病弱だったらしく、全寮制のこの学校で、特別に朝寝を許されていたらしい。後の自身の記述で、「どの医者からも早死するだろうと言われていた」と語っているとのことだ。デカルトは、この学校を出ると、10年ほどヨーロッパを渡り歩き、当時最も言論統制の少なかったオランダに住むことにした。

このオランダにいる間、つまり彼の半生は、外界との接触をほとんど断ち切る生活、つまり、現代で言えば立派な「ひきこもり生活」であった。しかし、彼に目をかけていた学者の世話役みたいな神父がいて、本来なら、外界とほとんどの接触もないデカルトも、現在のネットみたいなものを手にしていたようである。現代で言えば、三十過ぎのいいおっさんが、親が金持ちなのをいいことに、「考えごとするから近寄らないで」と言って引きこもり、たまに、ネットを利用して意見交換をしていたのである。現在の学者とは一線を画した存在であることは一目瞭然であろう。

このデカルト、恐らく、近所の人からは変人扱いされていたと思う。しかし、彼が現代に残した遺産は、実に莫大なものである。なぜなら、現代の科学は、デカルト無くしては発展し得なかったとしても全く問題はないであろうからである。おおよそ、日本で教育を受けた人なら殆どの人が聞いたことのある言葉「考える、故に我在り」(コギト・エルゴ・スム)という名ゼリフもデカルトの言葉だそうだ。

その哲学の内容がどういったものかと言うと、デカルトの哲学は、それまで主流だったアリストテレスの経験論的方法を実質的に排して、現在の科学的方法を定着させる礎となったのである。アリストテレスデカルトの違いについて簡単に説明すると、それまでは、人間の主観を通してしか理解されなかった自然現象を、自然それ単体として理解するものとしたのである。

これについては、イマイチ意味がわからないであろうと思う。それは当然で、現在のほとんどの人は、自然現象に対して、後者の方の見解しか知らないのである、ここにどのくらいのギャップがあるのかを例えると、当時の最先端の科学者が、前者のアリストテレス的方法を拭い去ることができぬまま、中学校の理科を三年間みっちりと学習したとする。彼は、しかし、結局、アリストテレス的見解でしか理科を理解できない。こうであった場合、この優秀な17世紀の最先端の科学者でも、理科の入試模試の結果は20点くらいであろう。ということである。

少しでも想像しやすくするために、とても大げさな例えにしたけど、そのくらい革命的な違いなのである。それが具体的にどういったことか例えてみよう。彼によれば、地球はそもそも自転していなくて、目で見て明らかに星や太陽が動いているのだから、星や太陽が動いているのである。また、銅は、酸化の状態によって、緑になったり青になったり茶色になったりするが、彼が言うには、見てみて明らかに色の違うものであるのだから、あくまでも別の物質がこびりついたに過ぎいということになる。また、自由落下を定式化したニュートンのF=maという等式などは、彼に言わせると茶番もいいところで、「そんなことをやっているから家に引きこもるんだ」と毒づく根拠にしかならない。

つまり、アリストテレスの経験的方法とは、「人間の観察を介して正しいと確認されるものしか信じない」というものなのである。これに対して、デカルトは、「人間の観察は、たとえ目や耳で確認できるものでも間違っているかもしれない」と主張したのである。このデカルトの主張が受け入れられたからこそ、現在、自然現象を数式で表すことができることとなった。なぜなら、それまでは、「人間の観察を介さないもの」は全て非であったのだから。例えば、「力」という概念に関するものは、人によって全く違うように認識されるより他なかった。つまり、プロレスラーは力が弱いと感じることも子供は力が強いと感じるのに、この確認の仕方だけが正しかったのである。こんな状態で、どうして、力を数式で表すことなどができただろうか。そして、それが最先端の科学だったのである。

そうであるならば、この人間の感覚を最終の検問とする方法を退けたデカルトを、現代の科学の基礎を作ったとしてどんな語弊が混ざっていようか?

さて遂に本題、「オカルト」である。「オカルト」が何かというと、簡単言えば、「信じている人」と「信じない人」がいるものである。そして、それがどうしてかと言うと、それを確認する最終手段が常に「人間の感覚」に由来しているからである。

例えば「霊」、これは見たことがある人もいれば、見たことがない人もある。だから、「間違いなく見た」人は「見たから、霊はある」と主張する。しかし、見たことがない人は、「ある」とも「ない」とも主張する。

次に、私が少し研究した易占について言うと、これは占い結果が、現実に合致する場合と合致しない場合がある。その分水嶺は「誠意」というファクターによる。つまり、この「誠意」というファクターが外れる側にいるときは必ず外れることになるが、「誠意」というファクターが当たる側にあるときは必ず(100%)当たる。(知り得ない現実を知って言い当てることができる)しかし、この「誠意」は、あくまで人間の心という感覚に納まっていることなのである。

こういったように、オカルトは、「人間の感覚に頼る」という点で、「デカルト的方法論よりアリストテレス経験論的方法」に近いのである。しかし、アリストテレスは、現在のオカルト的なことについて何か重要な文章を残したというわけではない。オカルトが、デカルトよりもアリストテレスに近いと言って、オカルトがアリストテレスと同義というわけではないからである。

ここでオカルトとデカルトの関係をしっかりと知る必要があろう。実は、デカルト、最高の教育機関で教育を受けながらも、それでは満足できず、「手に入る限りの秘術的な書物」を全て読んでいたらしいのだ。つまり、デカルトはオカルト少年であった。これは当然であろう。デカルトは、医者からは見放され、体は病弱で、若死にまで宣告されていたのに、その理由がどこにもないばかりか解決方法もない。未来のことはただただfortuneに頼るしかなかったし、過去もただただfortuneの賜物でしかなかった。しかも、自分が苦しんでいる舞台は、他ならぬ当時の学術的最先端の大学、しかも最も頼れる父と叔父はあろうことか医師であった。もう、Fortuneが何かを知ることにしか、デカルトには生きる道標が許されていなかった、としても過言ではない。

そして、このオカルトを知るデカルトが、オカルトを排する現在の科学を立脚したのである。普通の人だと、ここで、ああ、数奇な運命だな。で終わるかもしれない。しかし、私は違う。私もオカルトと科学、両方を知っている。その上で、デカルトが、オカルトを排したのは「故意」「計算の内だった」としか思えない。

デカルトが、オカルトについて、どれだけ検証を行い、どれだけ自分の役に立てていたかは分からないが、オカルトの特徴を掴んでいたことは間違いないと思う。そして、オカルトの特徴は先に述べたようなものである。つまり、「人間の感覚に依拠する不確実なファクター」が、必ず「重要なファクター」となるのがオカルトなのである。このようにして考えてみると、アリストテレス的経験的方法がオカルトに似通った不確実なものである。ということは、簡単に分かる。(当時はそれが常識だったからすぐにはわからなかったかもしれないが)

しかし、この「人間の感覚に依拠する不確実なファクター」とは、普通の人間社会生活において、とても重要なことである。なぜなら、この「不確実なファクター」を全く考慮に入れないで家族生活を送れば、喧嘩が絶えないか、協力関係が築けないことは明白であるからである。逆に「不確実なファクター」を知ることができれば円満な生活が送れるだろう。それに、人間の感覚を無視して実験をすることはできないし、人間の感覚から何も得ないで何かを知ることなど、そもそもできないのだから、アリストテレスを基準に考えても、この「不確実なファクター」は重要なことであった。

そうであるのに、デカルトが、この「不確実なファクター」を排したのは、それを重要なものだと思わなかったからだろうか?

そうではなくて、むしろ、デカルトは、この「不確実なファクター」が重要であるが、非常に難しいことであると認識した上で、この難しいことを完全に分離したのではないだろうか?そうやってこの難しい問題を一時的に棚上げすることによって、人類の発展を目指したのではないだろうか?デカルトの著書や書簡には、ところどころに自分の哲学の限界を語るような部分があるらしい。

他にもデカルトへの興味は尽きない。その400年も前の自然体系論には、既に「ダークマター」とほぼ同義のものについての記述があるようであるし、どうやって、知ったのか分からないが、光が粒子と波動から成り立っているという記述もあるとのことである。今回は、入門本を読んだだけであるが、原著の方にもあたってみたいと思った。