69.学問のすすめ 現代語訳 第十四・十五段落

第十四段落

 前に出した箇条は人に働きがあって心事が不行き届きである場合の弊害であるけれど、今、これに反して心事だけは高尚遠大で事実の働きがないのもまた甚だ不都合なものである。心事が高大であるのに働きが乏しいものは常に不平を抱かないわけにはいかない。

 世間の有様を観察して仕事を求めるに当たり、自分の手に適うような仕事は皆全て自分の心事以下のことであれば、それに従事することを好まず、だからといって、自分の心事をたくましくするためには実際の働きが乏しくて事に当たることもできないで、こういったときに、その罪を自分に責めないで他を咎め、または、時にあわないとか天命が至っていないとか言って、あたかも天地の間にやるべき仕事がないかのように思いこんで、ただ退いてひそかに一人で煩悶するのみ。口には怨み事と愚痴ばかりで、顔はいつも不平をあらわにし、自分以外は全部敵のようで天下は皆不親切のようで。その心中をたとえてみると、人に金を貸したこともないのに返金が遅いことを怨むものと言っても良い。

 儒者は自分を知る者がないことを憂い、学生は自分を助けてくれる人がいないことを憂い、役人は立身の手がかりがないことを憂い、町人は商売が繁盛しないことを憂い、廃藩の士族は生計が立てれないことを憂い、役のない華族は自分を尊敬するものがいないことを憂い、朝朝暮暮憂いばかりで楽しいことがない。

 今日の世間には、こういった類の不平が甚だ多いように思う。その証拠が欲しいのならば、日常の交際で人の顔色をよくうかがってみるといい。言語容貌が活発で胸中の快楽が外にあふれんばかりの人は、世の中に本当にごくまれなものである。私の実験によると、常に人の憂えるばかり見て、喜んでいる様子はほとんど見ない、その面持ちを借用したら不幸の見舞いなどにうってつけであろうという者ばかり多くて、気の毒千万という有様である。

 もし、こういった人達が、各々その働きの分限に従って勤めるということがあったならば、おのずから活発維持の心地よいところにいることができて、次第に事業も進歩し、ついには心事と働きと相平均する場合もあるだろうに、いままでこのことに気がつかないで、働きの位は一に止まり、心事の位は十に止まり、一に居て十を望んで、十に居て百を求めて、これを求めることができないでいたずらに憂いばかり買っている者と言うべきである。これを例えると、石の地蔵に飛脚の魂を入れたかのようで、痛風の患者に神経の過敏を増したような者と言うべきである。その不平や不如意は簡単に推測することができる。

第十五段落

 また、心事が高尚なのに働きに乏しい者は、人にいとわれて孤立することがある。自分の働きと人の働きとを比較すれば、確かにそんなに大して変わらないのであるけれども、自分の心事で他の働きを見るとこれに満足できないで、その人がひそかに軽蔑の念を持つということになる。そして、みだりに人を軽蔑する者は、必ず人からも軽蔑されることを免れないものである。お互いに不平を抱いて、お互いに軽蔑して、ついに変人奇人として嘲笑されるようになり、世間で人生をまっとうできなくなってしまう。

 今の世の有様を見てみると、傲慢不遜であるがゆえに人にいとわれる者がおり、人に勝つことばかりを考えていて人にいとわれる者があり、人に多くを求めて人にいとわれる者があり、人を誹謗して人にいとわれる者がある。どれもみな、人に対して比較するところを失ってしまっていて、自分の高尚な心事ばかりを標的として、これを照査するのにも他の働きばかりと比較し、さらにはそのときに自分に都合のよい妄想の世界を造って、そうして人にいとわれるきっかけを作って、ついには自分でも人を避けて独歩独立の苦界に陥ってしまっている者である。

 試みに言うならば、後進の少年たちは、人の仕事を見てそれが心に不満だと思うならば、自らその事を自分で行ってみるとよい、人の商売を見て稚拙だと思うなら、自分でその商売に当たってみて試してみなければならない。隣家を見て、不取締と思うなら、自分でそれを我が家に試さなければならない。人の著書を評価しようと思ったら、自分で筆を取って書を著さなければならない。学者を評価しようと思ったら学者たるべきである。医者を評価しようと思ったら医者であるべきである。

 至大のことから至細のことに至るまで、他人の働きに口をはさもうと思うのなら、ためしに身をその働きの地位に置いて自ら顧みなければならない。または、職業が全く違うのであるならば、よくその難易と軽重を計って、全く別の仕事であってもただ働きと働きとでもって自他の比較をするならば、大きな過ちもそれほどはなかろう。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

荀子の天論に影響を受けているように思われる。というか、西洋の自由思想自体が、儒学(当時の社会的風潮)に対する荀子みたいな位置なのかもしれない。

■ここで福沢が言いたいことは、一言で言うならば、「文句を言っている暇があなら動け」ということのように思う。それともうひとつは福音書の「裁くことなかれ」と同意であろう。記憶によってこれをそこに書く「あなたは裁いてはならない。人の目の中のほこりを取り除いてあげたいと思うなら、まずは自分の目の中にある梁を除け。野犬に神聖な肉をやってはならない。豚に真珠をやってはならない。豚は真珠を投げつけてやると、それを喜ぶばかりか、かえって怒り狂って突進してくる。」聖書のたとえは、奥が深いし、よく考えないと意味がわからない。是非とも、皆さんもこの例えの意味を自分で見つけていただきたい。