68.学問のすすめ 現代語訳 十六編 第八〜十三段落

心事と働きが相応すべきという論

第八段落

 議論と実際がふたつながらその宜しきを得なければならないといったことは、多くの人が言うことであるけれども、この言っていること自体が議論でしかないのであって、これを実地に行っている人は甚だ少ない。

 そもそも、議論というものは、心に思ったことを口に出したり書き著したりすることである。または、口にも文にもしていないならば、これはその人の心事とかその人の志とか言われるものである。だから、議論というものは、自分以外のものとは関係ないものと言っても過言ではない。つまるところ、内にあるものであり、自由であり、制限のないものである。

 実際とは心に思うところを外に現し、外物に接して処置を施すことである。だから、実際とは制限のあるものであり、外物に制せられて自由であることができないものである。昔の人がこのふたつを区別して、言と行とか、志と功とか言ったのである。また今日の世間で言うところの説と働きというのもすなわちこれのことである。

第九段落

 「言行が食い違っている」とは、議論で言っていることと実地で行っていることが同じでないと言うことである。「功に食(は)ましめて志に食ましめず」というのは、実地の仕事次第でこそ物も与えられるのであり、その心に何と思っていようが形がない人の心事を賞することはできないという意味である。また世間では、なにがしの説は兎も角もそもそも働きのない人物だと言ってこれを軽蔑することもある。どれも議論と実業と相当していないことを咎めたものである。

第十段落

 すると、この議論と実際とは、少しも食い違うことのないように正しく平均させなければならない。今、初学の人の理解が簡単になるように、人の心事と働きという二語を使って、それらが互いに助け合って平均を保ち、人間の便利に役立つ理由と、この平均を失うことで生じる弊害についてこれから述べる。

第十一段落

第一

 人の働きは大小軽重の別がある。芝居も人の働きであれば、学問の人の働きであり、人力車をひくことも、蒸気船を運用することも、すきで農業をすることも、筆をふるって著述をすることも、みな等しく人の働きであるのだけど、役者であること好まないで学者であることを勧め、車ひきの仲間に入らないで航海の術を学び、百姓の仕事では不満足だと著書の業に従事するようなことは、働きの大小や軽重を弁別し、軽小を捨てて重大に従うものである。人間の美事と言うべきである。

 そうではあるのだけど、そのこれを弁別しているものは何なのであろう。本人の心であり、また志である。こういった心志のある人を名付けて心事高尚なる人物と言う。だから、人の心事は高尚でなければならない、心事が高尚でないならば働きもまた高尚ではなくなる。と言うのである。

第十二段落

第二

 人の働きはその難易にかかわらず、大いに役に立つものと大して役に立たないこととがある。囲碁将棋などの技芸と言ったものは、決して簡単なことではなく、これらの技芸を研究して工夫をめぐらすことの難しさは、天文、地理、器械、数学などと比べて劣っていないのではあるのだけど、その役に立つか立たないかという理論をするならばまるで話にならない。

 今、この有用と無用とを明察して有用の方につこうとするならば、これはすなわち心事の明らかな人物である。だから言うのだ。心事が明らかでないならば、人の働きは、いたずらに労するばかりで何の功もないのだと。

第十三段落

第三

 人の働きには常識がなければならない、その働きをするのに場所と時節とを考慮しなければならない。たとえば道徳の説法はありがたいものではあるのだけど、宴会の最中に急にこの話をするならばいたずらに人の嘲笑を買うばかりである。学生の激論も時には面白いものであるのだけど、親戚子供が集まっている時にこれを聞けば、発狂人と言うしかない。

 このように、場所柄と時節柄とを弁別して常識が備わっていることは、すなわち心事が明らかであるということである。もしも人の働きが活発であるのに明智がないのであるのなら、蒸気に機関がないようで、船に舵がないようなものである。ただ利益がないばかりかむしろかえって害のあることが多い。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■現代でも、多くの人が高い金を出して買うであろう「ビジネスパーソンの〜〜」という本に書かれていそうなことや、そういった類の講習で聞けそうなことばかりである。人の働きについての神髄や基本といったものは、今も昔も変わってないということであろう。