53.学問のすすめ 現代語訳 十三編 第一〜三段落

十三編

怨望は人間に害があるということ

第一段落

 おおよそ、人間には不徳と言われる箇条は多いのだけど、その交際に害があるものは怨望より大きなものはない。貪吝奢侈誹謗と言ったものは、どれも不徳の著しいものであるのだけど、よくこれを吟味してみるとその働きの素質において必ずしも不善であるとは限らない。これを施すべき場所柄と、その強弱の度合と、その向かう方向によっては、不徳の名を免れることもある。

 たとえば、銭を好んで飽くことを知らないことを貪吝と言う。けれども銭を好むことは人の自然な心なのだから、この天性に従って十分にこれを満足しようとしても決して咎めるようなことではない。ただ、理外の銭を得ようとしてその場所を誤り、銭を好む心に限度がなくて理の外に出て、銭を求める方向に迷って理に反するときは、これを貪吝の不徳と名付けるのである。

 だから、銭を好む心の働きを見て直ちに不徳の名を下してはならない。その徳と不徳との境界には道理というものがあるのであって、この道理の中に入るものを節約倹約といったり経済といったりして、まさに人間が勉めるべき美徳の一カ条である。

第二段落

 奢侈もまたそのようなものである。ただ身の分限を越えているのかどうかによって徳不徳の名を下さなければならない。軽くて暖かいものを着て、住みやすい家に住むのを好むのは人間の性情である。天理に従ってこの情欲を慰めているのに、どうしてこれを不徳と言うべきだろうか。積んでよく散じて、散じて限度を越えないことは、人間の美徳と称すべきものである。

第三段落

 また、誹謗と弁駁も、違うものだとは言うこともできなくて、少しの差しかない。他人に間違ったことを押し付けようとすることを誹謗といい、他人の迷いを解いて自分が正しいと思っていることを弁ずることを弁駁という。

 だから、世の中でまだ真実無妄の公道が発明されていない間は、人の議論もまたどれを是としてどれを非とすべきか、これを決めることはできない。是非がいまだ定まっていない間は、仮に世界の通説で公道であるとはいっても、その世界の通説の根拠を知るのは簡単なことではないのだ。

 だから、他人を誹謗するものを見ては、すぐにこれを不徳者と言ってはならない。それが果たして誹謗であるのか、または真の弁駁であるかを区別しようとするには、まずは世界中の公道を求めなければならない。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536

感想及び考察

■なんか道徳感情論を思い出した。途中で止まっているが、また、読解を再開せねばならない。しかし、この学問のすすめが終わったら、孫子の現代語訳をする予定だ。孫子は、私が一番最初に読んだ古典であり、私の考え方の基本を形造っているものと言っても過言ではない。ただし、孫子には、悪用できるところや浅解や曲解によって、悪徳を増すところも多いので、君子用になるよう、至る所に錠をかけようと、構想を温めている。ただ、そこまでやろうと思うと、自分の実力も必要になってくるので、構想倒れするかもしれない。

■第一と二段落は、資本主義を肯定する論理、そして、第三段落は、言論の自由と思想の自由を肯定する論理と言えると思う。資本主義と自由、これらの本質をしっかりと弁えていないと、この論理は書けない。さすが福沢、と思われるところである。▼しかし、これはこの時代だったから、貪吝奢侈を肯定するようなことを書いているだけで、現在では事情も変わってきていると思う。というのも、この福沢の肯定を進めた理論である新自由主義というものは、勝ち組と負け組を作る思想であるからだ。皆が、「私は金持ちとなりたい」と思って、皆が金持ちになれるのならそれはいいことだ。だが、現在の資本主義システムだと、皆が「私は金持ちになりたい」と思って自由気まま、勝手に動くと、「勝ち組と負け組」ができてしまう。これは「負け組から搾取する側」と「勝ち組に貢ぐ側」と言い換えることもできるだろう。▼そもそも、プラトン曰く「節約と言っても、ある快楽をある快楽を交換するような節約とは、本当の節約ではない」のである。どういうことかと言うと、例えば、百万円のかばんが欲しかったとする。これを買うために、日々節約し、こうしてためた百万円でその欲しいかばんを買うこと、これを偽の節約と言う。本物の節約、節制とは、節約それ自体が目的なのである。だから、食べ物を食べないで美しさや健康を保とうと思っているうちは、「ある快楽をある快楽に交換すること」に過ぎない。節約や節制それ自体を楽しむこと、これを真の節約と言う。

■第三段落を読んで、なるほどと思ったことがあった。つまり「どうして政治関係のことは議論が割れて、論戦となることが多いのか」ということである。ツイッターとか、掲示板とか、大体議論が紛糾しているのは、この「政治関係の事」が多い。してみるに、政治関係の事は、ほとんど必ず「結果が分かっていない」または「結果となることが起こっていない」「結果が分かりにくい」のである。つまり、政治の議題とは多く「未来」なのであって、これは未だ来ていないものなのである。だから、現時点で、その政治や政策の良し悪しというものは、絶対にハッキリと決定付けることはできない。こうした理由から、「ああでもない」という人もいれば、「こうでもない」という人もいるのである。そうして、この両者がガチ合うと議論となり紛糾し、結局物別れで終わるパターンが多いのである。