60.学問のすすめ 現代語訳 十四編 第九〜十八段落

世話の字の義(意味)

第九段落

 世話の字にはふたつの意味があり、一つは保護の意味、もう一つは命令の意味である。

 保護とは、人の事について傍らから見張りをして防いだり守ったりして、これに財物を与えたりこれのために時を費やしたりして、その人の利益と面目が失われないように世話することである。

 命令とは、人のために考えて、その人のために便利であろうということを指図し、不便利であろうということには意見を出して、心を尽して忠告することであって、これもまた世話の字の意味である。

第十段落

 このように、世話の字に保護と指図の両方の意味を備えて人の世話をするときには、それは真に良い世話なのであって世の中は円く治まるのである。

 たとえば、親子の間におけるように、衣食を与えて保護の世話をするのなら、子供は父母の言うことを聞いて指図を受け、親子の間柄には何の不都合もない。

 また、政府において、法律を設けて国民の生命と面目と私有とを大切に取り扱い、一般の安全を取り計らって保護の世話をして、人民が政府の命令に従って指図の世話をないがしろにするようなことがないのならば、公私の間は円く治まるであろう。

第十一段落

 だから、保護と指図とは、二つでありながらその至る所は同じであり、この境界を少しも誤ってはならない。保護できる範囲は指図できる範囲内でしかなく、指図できる範囲は必ず保護できる範囲内のことでなくてはならない。

 もしそうでなくて、この二者の及ぶべき範囲を誤って、少しでも食い違うことがあるのならば、たちまち不都合を生じて禍の原因となるのである。もっともそのようになる理由は、世の人々が世話の字の意味を誤っていることなのだ。そのように勘違いしているから、世話の意味を、時には保護の意味と理解してみたり、また時には指図の意味と理解してみたりと、どちらか一方にのみ偏って本当の全ての意味を尽すこともなく、大いなる間違いをしてしまうのである。

第十二段落

 たとえば、親の指図を聞かない道楽息子に銭を与えて、その放蕩ぶりをさらに進めるようなことがあるのなら、保護の世話はできているのに、指図の世話ができていないことになる。子供が謹慎勉強して父母の命令には従っているのだけど、この子供に衣食も十分に与えずに無学文盲の苦界に陥らせてしまうようなことがあるなら、指図の世話だけをして保護の世話を怠っていると言うべきである。先の挙げたのは不孝であり、後に挙げたのは不慈である。これらはどちらも、人間の悪事と言うべきものである。

第十三段落

 古人の教えに「朋友にしばしばすれば疎んぜられる」というのがある。そのわけは、自分の忠告を聞き入れない朋友に向かって余計な親切ばかりして、相手方が自分のことをどう思っているかをもしっかりと考えずに、厚かましくも意見をすると、最後にはかえって、愛想を尽かされ、その人に嫌われ怨まれ、または馬鹿にされるようなこととなって事実として結局何の利益もない。だから、大体のところで見計らってこちらから近付かないようにすべきだということである。このことも、指図の世話の行き届かない所には、保護の世話もすべきでないということを表している。

第十四段落

 または、昔かたぎにも、田舎の老人が古い本家の系図を持ちだして、よその家の中をかき回し、銭も持っていない叔父様が実家の姪を呼びだして家事のことについて指図し、その薄情を責めてその不行き届きを咎めて、甚だしいのに至っては知らぬ祖父の遺言などと言って姪の家の財産を奪ってしまうとするようなことは、指図の世話が厚すぎて保護の世話の痕跡すらないものと言える。ことわざに言う、大きなお世話とはこのことである。

第十五段落

 また、世の中には貧民救済と言って、人物の良し悪しも問わず、貧乏である原因も調べずに、ただ貧乏な有様を見て、米や銭を与えることがある。天涯孤独で頼るところもないような人には、確かにもっともな処置ではあるけれども、もらった五升のお恵み米のうち三升を酒にして飲んでしまう者もいないこともない。禁酒の指図もできないのにみだりに米を与えるのなら、指図が行き届かないで保護の度が過ぎたものである。ことわざに言う骨折り損のくたびれもうけとはこのことである。英国などでも救貧法で困っていることは、こういった不行き届きがあるということらしい。

第十六段落

 この理論を押し広めて一国の政治上で論ずるならば、人民は租税を出して政府の経費をまかない、政府の財布の保護をしているのである。そうであるのに、専制の政治では、人民の助言は少しも取り入れないで、その助言を言えるような場所もないのであるから、これもまた保護はできているけど指図の道は塞がれているものである。自民の道は、骨折り損のくたびれもうけというものである。

第十七段落

 こういったことにの例を挙げていちいち数えると全くキリがない。この世話の字の意味は、経済論の最も大切な箇条であるからには、人間の渡世において、その職業がどんなものであるかとか、大きい小さいに関わらずに、常に注意しなければならないことである。

 この議論は、全く薄情な計算のようにも感じられるけれど、薄くすべきところを無理に厚くしようとし、または、中身は薄いのに名前と名誉ばかり厚くしようとするならば、かえって人間の情を害して世の交際を苦々しいものにしてしまうのであって、名を買おうとして実を失うということになってしまうのである。

第十八段落

 このように議論を立てはしたのだけど、世の人の誤解を恐れて敢えてここにいくつか付け足しておきたい。

 修身道徳の教えにおいては、ともすると経済の法則とは必ずしも一致しないものがある。もっとも、一人の身の私徳が天下の経済にことごとく影響を与えるはずもない。しかし、見ず知らずの乞食に銭を与えたり、貧しくて憐れむべきものを見れば、その人の経歴も尋ねないで財物を与えることがある。このように、何かを与えることは保護の世話であるのだけれども、この保護は指図とともに行われているものではない。

 考える範囲を狭くして、ただ経済上の公論でこれを考えれば、確かに不都合なことは多いのだけど、一身の私徳において恵み与えるという心は最も貴ぶべきものであり最も好むべきものである。

 たとえば、天下に乞食となることを禁じている法は、公明正大なものであはあるのだけど、人々の個人的な考えで乞食に物を与えようとする心はとがめられるべきものではない。人間は全てを計算だけで決めてはならない。ただ、計算で決めるべきこととそうでないことをしっかりと区別することが重要なのである。世の学者は、経済の公論に酔って、仁恵の徳を忘れていはならない。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■福沢根っからの儒学者論を展開したい。ここに書かれていることは、まさに論語とかの精神であって、「朋友にしばしばすれば疎んぜられる」は論語にある言葉である。また第十七段落には、「大学」冒頭からのほとんどそのままの引用もある。引用しようとしたら相当長くなりそうなのでやめておくこととする。