67.学問のすすめ 現代語訳 十六編 第一〜七段落
十六編
第一段落
不羈独立という言葉は、最近世間でも話に聞くけれど、世の中の話には随分間違いもあるから、銘銘の人がよくその意味を弁えなければならない。
第二段落
独立には、二つの別の有様があり、一つは有形のもので、もう一つは無形のものである。さらに簡単に言うと、品物についての独立と、精神についての独立と、この二つの区別があるのである。
第三段落
品物についての独立とは、世間の人が各自で自分の生計を立て、稼業を勤めて他人の世話厄介とならぬように、一身一家の中の始末をすることであって、一口で言ってしまえば他人から物をもらわないという意味である。
第四段落
有形の独立については、今述べたように目に見えることであるから説明が簡単なのであるけれど、無形の精神の独立に関しては、その意味は深く、その関係は広く、独立の意味とは関係ないように思われることでもこれに関わっていて、この意味を誤っている者が甚だ多い。細かいことではあるけれど、これから一つの例を挙げてこれを述べよう。
第五段落
「一杯、人、酒を呑み、三杯、酒、人を呑む」ということわざがある。このことわざについて説明してみると、酒を呑みたいという欲望によって本心の方が制せられ、本心の方は独立していないという意味である。
今日、世の人々の行いを見ると、本心を制しているのは酒だけでなくて、千状万態の物事があって本心の独立が妨げられていることが甚だ多い。
この着物には似合わないからと言って、かの羽織を仕立て、この衣装には不相応だからと言って、かの煙草入れを買い、衣服が既に備わってくると家が狭いのが不自由となってきて、家の改築が終わると宴会を開かないでは不都合だと言うことになり、うな重は西洋料理の媒酌となり、西洋料理は金の時計の手引となり、これよりあれに移り、一から十に進み、一進また一進、だんだんと進んで限りというものがない。
この様子を見てみると、一家の中に主がいないようで、一身の中には精神がないようで、物が人を動かして物を求めるようにさせ、主人は品物から支配されてこれらに奴隷扱いされているようなものである。
第六段落
さらにこれより甚だしいこともある。前の例は、品物の支配を受ける者の話ではあるのだけど、その品物は自分の家にあるものであるからには、一身一家の中に奴隷との境界があるだけのことであるけれども、ここにはまた他人のものに使われる奴隷の例もある。
あの人がこの洋服を作ったから私もこれを作ると言い、隣が二階建の家を建てからうちは三階にすると言い、朋友の持ち物は自分の買い物の見本となり、同僚の噂話は自分の注文書の原案となり、色の黒い大男の節くれだった指に金の指輪はちと不似合いと自分でも心に感じながら、これも西洋人の風だと言って無理に自分で納得し、奮発して買い物をしたり、猛暑の晩の風呂を出た後には浴衣にうちわとは思うのだけど、西洋人の真似であれば我慢してまで袖のある服を着て汗を流し、ただひたすらに他人の好みと同じであるかどうかばかり心配している。
他人の好みに合わせているだけならまだ許せるものではあるのだけど、さらに笑うべき極度のことに至っては、他人の物を誤って認識し、隣の奥様がお召縮緬に純金のかんざしをと聞いて大いに心を悩まして、急に自分もと注文して後々よく調べてみると、あら計らずとも、隣の品物は綿縮緬にメッキであったとか。
このようなことは、すなわち自分の本心を支配しているものは自分の物でもなく他人の物でもなく、煙のような夢中の妄想に制せられているのであって、一身一家の世帯が妄想の自由に行き来する場所になっていると言えるだろう。これでは精神独立の有様とは多少の距離がある。その距離が近いのか遠いのかは銘銘各自で計らなければならない。
第七段落
このような夢の中の世渡りに心を労して身を疲れさせて、一年千円の収入も一月百円の月給も使い果たしてその痕跡が見えず、不幸にも家の収入が無くなってしまうか、月給の縁と離れてしまうような事があったのなら、気が抜けたかのように、間抜けになったかのように、家に残ったのは無用のがらくたばかりで、身に残ったのは贅沢の習慣だけ、憐れなことではあるけれども、愚かなこととしか言いようがない。
収入を得ることは一身の独立を求めるための基礎であるからと身心を労しながら、その財産を使うときに、かえって家にある物に制せられて独立の精神を失い尽すとは、まさにこれを求める術によってこれを失うというものである。
私は、敢えて守銭奴のような行いを褒め称えるわけではないのだけど、ただ金を使うための方法は工夫し、銭を制して銭に制せられず、少しも精神の独立が害されることがないようにあってほしいと思うばかりである。
まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536
感想及び考察
■こういった妄想(よそが〜〜だから〜〜という発想)で、会社が経営を行ってしまうとかなりまずい。大体、会社にしろ個人にしろ、規模や体質というものがあるのであって、例えば、小学生の子供が父親のサウナの習慣を真似すれば、それは大人にとっては健康にいいのであろうが、子供にとっては有害なのである。そのように、小さい会社が無理して大きい会社をライバル視するならば、それは単なる妄想である。他のたとえで言うと、ブラジルで育った人は当然冬を経験していないのだから、この人が無理にウィンタースポーツで注目を集めようとすれば、出費と労力ばかりがかかって、結局サッカーで注目を集めようとした方が良かったのではないの?ということになってしまう。だから、会社や個人には、その会社や個人特有の、規模や体質というものがあるのであって、それのことを常にしっかりと考えなければならない。