66.学問のすすめ 現代語訳 第十五編 第五段落

第五段落

 こういったことであるからには、今の改革者流が日本の旧い習慣をむやみに嫌って西洋の事物ばかり信じることは、全く軽信軽疑のそしりを免れることができないものである。いわゆる旧を信じる信で新を信じ、西洋の文明を慕うあまりに、そのひんしゅくや朝寝の癖まで兼ねて真似てしまっているものと言うべきである。

 さらに甚だしいことには、まだ新の信じるべきものを探し当てていないのに、さっさと既に旧いものを投げ捨て、一身はあたかも空虚になってしまったかのかのようで、安心立命の地位まで失ってしまい、このために遂に発狂してしまう者すらいる。なんと憐れむべきことであろうか。医者の話を聞いてみると、事実最近では、神経症や発狂の病人が多いと言う。

 西洋の文明は、確かに慕うべきものである。これを慕ってこれに習おうとして、まだ日はそれほど経っていないのだけど、軽々にこれを信じることは、簡単にはそれを信じないことほど優れていない。彼の富強は、まことに羨むべきものであるのだけど、その人民の貧富不平均の弊害をも一緒に真似してはならない。日本の租税は寛大なものではないけれど、英国の庶民が地主に虐げられている苦痛を思えば、むしろ日本の農民の有様を歓迎しなければならない。

 西洋諸国の、婦人を重んずる習慣は人間世界の一美事であるけれども、無頼なお嫁様が調子に乗って良夫を苦しめ、わがまま娘が父母を軽蔑して醜行をたくましくするような風習には、心酔してはならない。

 ならば、今日本で行われてるような事は、果たして今のように考えて当を得ているものなのか、商売会社の法も今のように考えて可と判断できるものなのか、政府の今の体裁も今のように考えて可と判断できるものなのか、教育の制度も今のように考えて可と判断できるものなのか、著書のありようも今のように考えて可と判断できるものなのか、それだけではなく現在の自分の学問の方法も今のやり方でよいのかどうか、これを考えれば百の疑が並び立ってほとんど暗闇の中で物を探るようなものである。

 この雑沓混乱の最中において、よく東西の物事を比較して、信じるべきことを信じて、疑うべきことを疑い、取るべきことを取り、捨てるべきことを捨て、信疑の取捨において、そのよいところを得ようとするならば、これはとても難しいことではないか。

 そのはずであるのに、今、これらの責任を負っている者は、ただ一種の私党の学者のというより他はないのである。学者は勉めなければならない。まったく、これを思うはこれを学ぶことに及ばないのである。幾多の書を読み、幾多の物事に接して、虚心平気で活眼を開き、そうして真実のある所を求めるのならば、信疑はたちまちその所を別にして、昨日の所信は今日の疑団となり、今日の所疑は明日氷解することもあるだろう。学者は勉めなければならない。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■読者は減ってしまうかもしれないけど、私が得意の毒舌で、このことを普段の生活で例えてみよう。ブランド物やメーカー品をこぞって買うあなたは、本当にその物を気に入っているのか。それを自慢したいだけではないのか。それならば、中国製の偽物を買えばいい。真偽を見抜ける人間なんていないし、そもそもあなたの買ったそれは高いだけの品質の低いものであるのではないか。人の意見を信じて自分で考えないあなたは、考えたり調べたりするのがめんどうなだけではないのか。それならば、何でも私に尋ねていただければよい、私の意見があなたの意見となるだろう。そしてあなたは私が右を向くと右を向いて、左を向くと左を向く、私の操り人形になるだろう。要はこういったことである。人の意見や皆の考えに同調するだけでは、ただの操り人形になるだけで、自分の意志というものを持てない。折しも明日は選挙である。今日、これを読んだ方はまだ間に合うかもしれないから、自分が、メディアと皆の意見の操り人形になっていないか、しっかりと考えてみていただきたい。