51.学問のすすめ 現代語訳 十二編 第十・十一段落

第十段落

 最近、日本の学校の評価に、この学校の風俗はこんなものだ、あの学校の取り締まりは云々といって、世の父兄は専ら学校の風俗取締のことに心配している。そもそも、風俗取締とは、どんなことを指して言っているのか。校則が厳しくて生徒の放蕩無頼を防いでいて、取締の行き届いていることを言っているのだろう。しかし、これを学問する所の美事と評価すべきだろうか。私はむしろこれを恥じる。

 西洋諸国の風俗は決して美しいものでなく、あまりにも醜くて見るに忍びないことも多いのだけれども、その国で学校を評価するときに、風俗が正しいのとか取締が行き届いていることのみによって名誉を得たということを聞いたことがない。学校の名誉は、学科が高尚であることと、教え方が巧みであることと、そこにいる人物の品行が高くて議論が賤しくないことだけによって評価される。

 だから、今の学校に所属して今の学校に学んでいる者は、他の賤しい学校と比較するのではなくて、世界中で上流の学校を見て得失を判断して弁えなければならない。

 風俗が美しくて取締の行き届いていることも、学校の一得というものではあるけれども、その得は学校たるものの得のうちでも最も賤しむべき得でしかないのであって、少しもこれを誇ることはできない。上流の学校に比較しようとするならば、別に勉めているところがなければならない。だから、学校の急務としていわゆる取締のことを話し合っているようなうちは、たとえその取締が行き届いたとしても決してその有様に満足してはならない。

第十一段落

 一国の有様を論ずるのも同じようなことだ。たとえばここに一政府があったとする。この政府には、賢良方正の士を挙げて政治を任し、民の苦楽を察しては適宜に処置を施し、信賞必罰、恩威が行われないことはなくて、万民が腹をたたいて太平の世を楽しむようなことは、誠に誇るべきことのようである。

 そうではあるけれども、その賞罰といい恩威といい、万民といい太平といっても、皆全てことごとく一国内の事であり、また、一人か数人の思いのもとで成り立っているものでしかない。

 その得失に関しては、前代に比較するか、または他の悪政府に対してだけ誇るべきことであって、決してその国全部の有様を、他国に対して、一から十まで詳しく調べて比較したものではない。

 もしも、一国を全体の一つの物として他の文明の一国に対して比較し、数十年の間に行われる双方の得失を観察して互いに加減乗除して、実際に現れるところの損益を論ずるのならば、その誇るところのものは、決して誇るほどのことでもないだろう。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■福沢は韓非子の影響を受けているなと思うときがある。ここではそれはないのだけど、「ある人曰く」と、敢えて反対意見を入れてそれを論破し、自説の説得力を高めるやり方をしているときがある。あと、ここを読んでいても、法術としての統治と、自律による自治との違いもしっかり弁えているように思う。この法術としての統治と、自律による自治は、封建社会と民主主義社会の決定的違いでもあるように思う。この違いは微妙なのだけど、この微妙な違いがdemocracyなのかどうかというところの境目であるようにも思われる。例えば、選挙権を与えることで国家に忠誠を誓わすということであれば、それはdemocracyではない。この見せかけのdemocracyは国家に尽させるためだけの「法術」であり、「賞」であり、「操るための方便」でしかないことになる。そういえば、「民衆の民衆による民衆のための政治」とか言う言葉があったな。この言葉は、この真のdemocracyかどうかということの一面を捉えているように思う。