戒めの炎

講談社学術文庫の「仏教聖典」という本に、四不可軽経というのがあって、そこにこの「戒めの炎」が出てくる。

論語の「聖人の言を畏る」、ではないけれど、私はこの戒めの炎がいったいどんなものなのかと随分恐れている。

四不可軽経の概略をここに示すと

王族が釈尊(お釈迦様)を、どんな人だろうと好奇心で呼んだことがあった。この王族は、釈尊が若いのを見て、これを侮って「なんだ、ブッダブッダと言うからどんな人かと見てみれば、ただの若造じゃないか」と言ったらしい。

そしたら釈尊が、「若いからと言って侮ってはならないものが四つある」と言って、それを一つづつ説明し出した。

1.蛇、蛇は小さいからと言って侮ると、噛まれた時にはただでは済まない。だから、若いからと言って侮ってはならない。

2.火、火は小さいからと言って侮ると、家やその他の財産を焼きつくしてしまう。だから、若いからと言って侮ってはならない。

3.王族、王族は子供だからと言って侮ると、後でどんな仕返しをされるか分からない。だから、若いからと言って侮ってはならない。

4.道の人、正しい道についている道の人を若いからと言って侮ると、戒めの炎で焼きつくされることになる。だから、若いからと言って侮ってはならない。

この中で、どう考えても4.が一番恐ろしいと思う。

それで、最近、この「戒めの炎」の正体が分かってきた。それはつまり、まさに「戒めの言葉によって燃え始めた心を焼きつくす後悔と懺悔と言う名の炎」だということが分かり出した。

おおよそ、この世の中には多くの恐ろしいものがあるのだけど、「後悔と懺悔の炎」ほど恐ろしいものはないと思う。この炎による苦しみは生き地獄に他ならない。

例えば、蛇にかまれた痛みは確かに苦しみだけど、もし死んでしまえばそこでその苦しみは終わるし、痛みと言う苦しみは慣れれば我慢できるものである。

家を焼かれた苦しみは到底どうしようもないものだけど、なんとか心を転換することができればその苦しみも消える。

もしも、自分の縁者や肉親が王族に殺されてしまったとしても、これも心を何とか転換することができればなんとかなるし、また、死ねばその苦しみも消える。

だけど、後悔と懺悔の炎はそう簡単に消えない。その黒い炎は、どんなときでもどんな瞬間でさえも、心から離れることがない。そして、この苦しみだけは、この中のどれにも当てはまらない、魂それ自身への苦しみである。この苦しみは、肉体による縁で生まれる苦しみでなく、魂それ自身に付いて離れない苦しみなのである。