50.学問のすすめ 現代語訳 第六〜九段落

人の品行は高尚でなければらないということ

第六段落

 さきほど、最近のわが国で最も憂うるべきことは、人民の見識がいまだに高尚でないという一事であると述べた。人の見識品行は、微妙なことばかり話題にして、いたずらに高尚であってはならない。

 禅には、悟道というものがあって、その理はすこぶる玄妙であるけれども、その僧侶の所業を見てみるとあまりにも遠回りで現実に適していなくて、事実としては漠然として何の見識もない者と同じである。

第七段落

 また、人の見識品行はただ見聞が多いだけで高尚というわけではない。万巻の書を読んで多くの人と交流があるのに、それでも自分の定見というものがない人がいる。古い学問をかたくなに守っている漢儒者のようなのがこれである。しかし、これはただ儒者だけでなくて、洋学者でもこの弊害を免れていない。

 今、西洋の日新の学に志して、経済書を読んだり修身論を講じたり、理学や智学、そういった学問に日夜精神をゆだねて、その状況はあたかもいばらの上に座って、その痛みに耐えかねないはずであるのだけど、その人の個人的生活に目を向けてみれば、決してそうではなくて、目では経済書を読んでいるのに家の運営することを知らず、口に修身論を講じているのに自分の身の徳を修めることを知らず、その所論とその所業とを比較してみると、正しく二個の人がいるようで、さらには一定の見識さえないときがある。

第八段落

 つまるところ、こういった学者であっても、その口に講じていることや目に見ているであろうことを敢えて非とするわけではないのだけど、物事の是を是とする心と、その是を是としてこれを事実行う心とは、全く別のものであって、この二つの心が相い共に並ぶ行われるときもあれば、並び行われないときもある。

 医者の不養生とか、論語読みの論語知らずということわざもこのことを言っているものである。だから、人の見識品行は玄理ばかりを語っていたずらに高尚であってはならず、また見識を広くするだけでは高尚とはならないのである。

第九段落

 そうであるならば、人の見識を高尚にしてその品行を提起する方法はどういったものがいいのだろう。その要点は、事物の有様を比較して上流に向かい、自ら満足しないこと、この一事にあるのである。

 ただし、有様を比較するということは、一事一物を比較するということではなく、この一体の有様と、あの一体の有様とを並べて、双方の得失を残らず考察しなければならない。

 たとえば、今、少年の生徒がいて、酒色におぼれることもなくて謹慎勉強していれば、父兄に咎められることもなくて得意の顔ができるようであるけれども、その得意の顔も、他の無頼の生徒に比較したときだけの得意の顔ができるだけなのであって、謹慎勉強はそもそも人類の常であるのだから、これだけでは賞するには足らないのである。

 広く古今の人物を数えて、誰に比較して誰と同じだけの功業を修めることができるのなら満足できるのか、そのように必ず上流の人物に向かわなければならない。あるいは、自分に一得があったとしても彼に二得があるならば、自分はその一得に安んじていいはずがない。ましてや、後進は先進よりも優れていないとならないのだから、昔の人全てと比較しても劣らないようにしなければならない。今の人の職分は、このように大であって重いのである。そうであるはずなのに、今わずかに謹慎勉強をする一事だけで人類生涯の事とするべきだろうか、考えの浅いことも甚だしいことである。

 人として、酒色に溺れている者は、非常の怪物と言うべき者である。こんな怪物と比較して満足しているような者は、これを例えると、両目があるからと言って得意になって、盲目の人に向かって誇っているようなものである。いたずらに自分の愚かさをさらけ出すようなことである。

 だから、酒色云々の話で、これを論破したり是非を決したりしている間は、到底議論の賤しい者と言わざるを得ない。人の品行が少し進んだならば、これらの醜談はとうの昔に既に終わっていて、口に出そうとすると人から嫌がられるくらいになっているはずである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536

感想及び考察

■福沢はでかいな。と思った。昔の人を全部追い越せとは、なかなか思いつきもできないことであろう。私も福沢の意見に賛成だけど、ちょっと釈尊(シャカ)だけは無理ぽいので、それだけは、個人的にここで明言しておきたい。

■言志四録に「古今東西第一等の人物でなければなならない」とあったのを思い出して、ご紹介しようと思ったのだが、どこにあったか全く思い出せず、見つけることが出来なかった。ここに、私の記憶で、ある程度のことだけ添えておくこととする。「今生きている人の数は知れている。この人達と競って、東西一等の人物となったところで大したことではない。歴史書をひも解いて、昔いた人たちもここに数えるならば、それこそ古今東西第一等の人物なのであって、そういった人物となることを目指すべきである。」