49.学問のすすめ 現代語訳 十二編 第一〜五段落

十二編

演説を勧める説

第一段落

 演説とは英語で「スピイチ(speech)」と言って、大勢の人の前で自説を語り、席上で自分の思っていることを人に伝える方法である。わが国にそういった方法が昔からあるとは聞いたことがなく、寺院での説法などがこの類に入るくらいだろう。

 西洋諸国では演説の方法が最も盛んであって、政府の議院(国会)や、学者の集会、商人の会社、市民の寄り合い、さらには、冠婚葬祭や開業開店などの細事に至るまで、わずか十数人でも同じ場に会することがあるのなら、必ずその会ごとに、集まった趣意を述べて、人々の平生からの持論を述べて、または即席の思いつきをしゃべったりして、集まった客たちに披露する風潮がある。

 この方法が大切であることは言うまでもないことだ。たとえば、今、世間では議院などでの論議があるのだけど、もし仮に院を開いたのに自説を述べる方法がなかったら、議院もその機能を果たすことができない。

第二段落

 演説によって事を述べることが大切なのかどうなのかということから考えを離してみても、口で述べた時には自ずから味というものが生ずるものである。たとえば、文章にすればそれほど意味のないようなことでも、話でこれを伝えると了解することも簡単で、人を感じさせるところもあるものである。

 古今に名高い名詩や名歌と言ったものもこの類のものであり、この詩や歌を普通の文章で表現してしまうとそれほど面白くないものになってしまうようである。しかし、詩や歌の形式にのっとって表現すると、限りなく風雅に感じられるもので、人々の心も感動するというものである。だから、一人の考えや思いを、多くの人に伝えることの速やかであるかそうでないのかは、その伝える方法によるところが甚だ大きいのである。

第三段落

 学問は読書の一科だけではないということは、既に皆の知っていることであろうから、今はこれを詳しくは説明しない。そして、学問の要とは活用するかどうかなのである。学問を活用しないなら、それは無学であることと等しい。

 むかし、ある朱子学の学生が、長い間江戸に居て、その学流に就いて諸大家の説を写し取り、日夜怠らず数年の間写本をして、その写本も数百巻となり、もはや学問も成就したと故郷に帰ろうとして、東海道を下り、写本はつづらに納めて大間鷲の船に積み出したのだが、不幸にも、遠州灘で船が難破してしまった。この災難で、学生はなんとか帰国できたけれども、学問は全部海に流されてしまって、自分の身に就いているものは何一つ無く、いわゆる無一物で、田舎から出て行った時と何ら変わっていなかったという話もある。

 今の洋学者流でもこの懸念がないというわけではない。現在、都会の学校で読書して議論している姿を見ると、これを学者だと評価せざるを得ない。しかし、今、その原書を全部とり上げて、田舎に追放したとしたら、親戚朋友に会っても「おれの学問は東京に置いてきた」などと言い訳をするような奇談もあるだろう。

第四段落

 だから、学問の本当の要点は読書ばかりにあるのでなく、精神の働きにこそある。そして、この精神の働きを活用して実際に施すためには、また様々な工夫が必要なのだ。

 「ヲブセルウェーション(observation)」とは事物を観察することである。「リーゾニング(reasoning)」とは事物の道理を推論して究めることで、自分の説を作ることである。ただ、この二カ条だけで、学問のやり方全てが語り尽くされたということではない。

 さらにこの他にも、本は読まなければならないし、書き物をしないわけにはいかないし、人と談話をしないわけにはいかないし、人に自分の考えを話さないとならないのであって、こういった多くの術を使いこなして、始めて学問を勉強する人ということができる。

 すなわち、視察、推究、読書は知見を集めることであり、談話は知見を交換することであり、著書や演説は知見を広めるための術である。そうして考えてみると、この諸術の中では、あるいは一人でできることもあるけれど、談話と演説とに至っては、必ず人と一緒に居ないとできない。演説が重要であることを知らなければなければならない。

第五段落

 最近、我が国において最も憂うべきことは、見識が賤しいことである。これを導いて高尚な領域に進めようとすることは、そもそも今の学者の職分というものであって、仮にもその方法を知っているのならば力を尽くしてこれに従事しなければならない。

 そうであるからこそ、学問において談話や演説が大切であることは既に明白なことであるのに、現在、これを行っている者がいないのはどうしてだろうか。学者の怠惰と言うべきである。

 人間のことには内外両用の別があるのであるから、両方ともに勉めなければならない。今の学者は内側の方にばかり身をゆだねて、外の務めのことがお留守になっている者が多い。このことをしっかりと考えなければならない。

 自分に対して沈深であることは深淵のようで、人に接して活発であることは飛鳥のようで、その密であることは内に空洞がないかのように、その広大であることは外がないかのように、そのようであって始めて真の学者だと言える。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■日本において、議論の方法が少ないという話は、現在でもよく聞く話である。例えば、日本の国会は「法律を通す場」であって、「法律を議論する場」ではない。これが原因となって、小沢氏のような根回しのうまい人間が幅を利かすことが可能だったのである。つまり、日本の「歴史的議論下手」が原因となって、国会だけでは議論の成否を判断するだけの話し合いはできず、かと言って重要な法律は通しておかないとならないから、事前に根回しして調整して、議論と言う工程をなるべく少なくすることで、国会を円滑に運営しているということだ。こういった話は、「論文のレトリック」(講談社学術文庫)に詳しいので、興味をもたれたら是非読んでみていただきたい。

■私も、話すのは苦手というか、特にこう言った小難し目の話を、話す場が圧倒的に少ない環境にいる。それで仕方なくと言うか、必然的にと言うか、ブログとかで憂さ晴らしをしているわけである。それでも、ほぼ一方通行なのでさみしいのではあるが…