72.学問のすすめ 現代語訳 十七編 第六・七段落

第六段落

 孔子が言うには、「君子は人の己を知らざるを憂えず、人を知らざるを憂う」(君子は自分が有名でないことを憂えるのではなくて、人を知らないことを憂うる)ということである。

 この言葉は当時流行していた弊害を矯正しようと思って言ったことではあるけれど、後世の無気無力の腐儒はこの言葉を真に受けて、引っ込み思案になることばかりに心をこらし、その悪弊はだんだんと増長して遂には、奇物変人、無言無情、笑うことも知らず泣くことも知らない木の切れ端のような男を崇めて奥ゆかしい先生などと称するようになったことは、人間世界の一奇談と言うべきものである。

 今、このいやしい風習を脱却して活発な境界に入り、多くの物事に接して広く世の人に交わり、人も知り己も知られ、一身に持ち前正味の働きをたくましくして自分のためにし、兼ねて世のためにもしようとするには、

第七段落

第一 言語を学ばなければならない。

 文字に記して意を通じることはやはり重要なことであって、文通や著述などの心掛けは手落ちにしてはならないことは当たり前のことではあるけれど、近く人に接して自分の思ったことを直ちに人に知らせるには、やはり言語が最も有力なのである。

 だから、言葉はできるだけ流暢で活発でなければならない。最近、世の中には演説会というものが設けられる。この演説会で有益な事がらを聞くことは利益となることだけれど、この他にも、言葉が流暢活発であることによって得る利益は、演説者と聞き手の双方にあるのである。

 また、今日の口下手の人の話を聞くと、その言葉の数が甚だ少なくていかにも不自由であるかのようである。例えば学校の教師が訳書の講義をする時に、円い水晶の玉の事を、分かり切ったこととばかりに、少しも弁解をしないで、ただむずかしい顔で子供を睨みつけ、「円い水晶の玉」とだけ言うよりは、この教師が言葉に富んでいて言い回しのよい人物で、「円いとは角の取れて団子のようなということ、水晶とは山から掘り出すガラスのようなもので甲州などからいくらでも出ます。この水晶でこしらえたごろごろする団子のような玉」と説き聞かせたとするならば、婦人にも子供にも腹の底からよくわかるはずである。なのに、使って不自由のない言葉を使わないで不自由をすることは、つまるところ、演説を学んでいないことの罪である。

 または学生が、日本の言語は不便利で文章も演説もできないから、英語を使って英文を使うなどと、取るに足らないような馬鹿なことを言う者もいる。この学生はきっと日本に生まれてから、いまだに十分日本語を使ったことのない男なのであろう。

 国の言葉というものは、その国に事物が増えれば増えるほど次第に増えて、少しも不自由がないはずのものである。何はさておき、今の日本人は今の日本語を上手に使って弁舌が上達することを勉めるべきである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536



感想及び考察

■福沢としゃべってみたかったなぁと思った。ここまで言っているからには、話をすれば、なんでもわかりやすく面白く教えてくれたということだろう。確かに、学問のすすめは、現代語訳していても笑う部分がある。今日は、儒者の悪口のところと、団子のところで笑った。あの一万円札の肖像の目の部分を山谷折りにするという一発芸みたいなのがあったけれど、福沢と話をすると、福沢はいつもあんな感じの顔だったのかもしれない。