117.荀子 現代語訳 致士第十四 一・二章

致士第十四 (士を招く)

一章

 聴聞を広めて幽かなことを顕わにして、明を重ねて姦(ずるい悪事)を退け、良を進めるための術。

 近親者で徒党を組んでお互いにおもねりあったような良い評判については、君子はこれを聞こうとしない。
 他人を事実無根や大げさなもの言いで害するような悪口については、君子はこれを用いることがない。
 人を妬んでは抑えつけようとする人については、君子はこの人を近付けない。
 財貨やわいろによる請願については、君子はこれを許すことがない。

 そもそも、流言流説流事流謀流誉流訴の道(その言葉やことが来るべき自然な道筋)を通らないで、よこざまから割って入るようなことがらについて、君子は謹慎するのである。そして、聴聞することで明察し、そのことが当を得ているようならば、そうして初めて刑罰や報償を出して、人がその利害を被ることとなる。

 このようになるのならば、姦言姦説姦事姦謀姦誉姦訴をしてみようと思う者もなくなり、忠言忠説忠事忠謀忠誉忠訴が並び起こることとなって、全てのことが上進するようになるのである。こういったものを聴聞を広めて幽かなことを顕わにして、明を重ねて姦(ずるい悪事)を退け、良を進めるための術というのだ。

二章

 川の淵が深ければ魚がここに集まることとなり、山林が茂れば禽獣がここに集まることとなり、刑政が公平平等であるならば百姓がここに集まることとなり、礼義が備われば君子がここに集まることとなる。

 だから、礼が身に現れるようになれば行動が修まり、義が国に現れるようになれば政治も明らかなものとなる。礼義を用いてあまねくするのならば、貴名は白日にされされ天下から願われるようになり、命令は行われるようになって禁止されることは行われなくなって、王者としての仕事も終わるというものである。詩経 大雅・民労篇に「この中国に恵みを施し 四方を安んずる」とあるのはこのことを言ったのである。

 川の淵は竜や魚の住処であり、山林は鳥や獣の住処であり、国家は士民の住処である。川の淵の水が枯れれば竜も魚もここを去り、山林が険しくなると鳥や獣もここを去り、国家が政治を失するならば士民はここを去ることとなる。

 土地が無ければ人は安心して暮らすことができず、人が無ければ土地が守られることもなく、道に則った法則がないのならば人が来ることはなく、君子が居なければ道が行われることはない。だから、土地と人、道と法とは、国家の本作(国家が形作られるための本)というべきものである。

 この上で、君子という者は道と法とが、全て集まる要所というものである。ほんの少しの間でもこれを虚しくしてはならない。これを得るのなら治まってこれを失えば乱れて、これを得るのなら安心できてこれを失うのなら危うくなり、これを得るのなら存立することができてこれを失うのなら亡ぶこととなる。だから、良法があるのに乱れることはあるのだけど、君子が居るのに乱れてしまうような事は、昔から今に至るまで未だかつて一度もないことなのである。言い伝えに「治は君子から生じて、乱は小人から生じる」とはこのことを言っているのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■流言流説流事流謀流誉流訴と姦言姦説姦事姦謀姦誉姦訴と忠言忠説忠事忠謀忠誉忠訴については、荀子の原文の雰囲気が伝わるようにそのままにしておいた。これでもちょっとクラっとするけど、他にも沢山のクラっとする漢字の羅列がある。