116.荀子 現代語訳 臣道第十三 五〜九章

五章

 人に仕えて善をともに行ってもらえないのなら、努力が足らないからである。
 努力をしているのに善をともに行ってもらえないのなら、敬することができていない(大事にする気持ちが足りない)からである。
 敬することができているのに(大事にする気持ちがあるのに)善をともに行ってもらえないのなら、忠心(まごころ)が足らないからである。
 忠心(まごこころ)があるのに善をともに行ってもらえないのなら、功績を出すことができないからである。
 功績を出すことができるのに善をともに行ってもらえないのなら、徳が足らないからである。
 だから、無徳の道は、努力を無に帰して功績を壊して苦労を滅ぼしてしまうのである。それ故君子は、無徳の道を歩まない。

六章

 大忠というものがあり、次忠というものがあり、下忠というものがあり、国賊というものがある。

 徳によって君主を覆って、君主を感化するのなら、これは大忠というものである。
 徳によって君主を調整して、君主を助けるののなら、これは次忠というものである。
 正しいことによって正しくないことを諌めて、君主を怒らすのなら、これは下忠というものである。
 君主の栄辱を顧慮することなく、国の良否を顧慮することなく、俸禄だけは頑なに守って、自分個人の交友関係ばかりを養っているのならば、これは国賊というものである。

 周公の成王におけるようなものが大忠というべきもので、
 管仲桓公におけるようなものが次忠というべきもので、
 子胥の夫差におけるようなものが下忠というべきもので、
 曹触竜の紂王におけるようなものが国賊というべきものである。

七章

 仁者は必ず人を敬するものである。

 そもそも人と言うのは、賢者でなかったら不肖者である。人が賢者であるのに、この人を敬することがないのならば、それは禽獣の行いと何の変わりもないのであり、人が不肖者であるのに、この人を敬することがないのならば、それは虎を侮ることと何の変わりもないのである。禽獣となるのならば乱れることとなり、虎を侮るならば危うくなる。どちらにしても災いが身に及ぶことになるだろう。詩経 小雅・小旻篇に「敢えて虎を手打ちにせずに 敢えて川を徒歩渡らずに 人はその一を知りて その他のこと知ることなし」とはこのことを言ったのである。

 だから、仁人は必ず人を敬するのだ。しかし、敬するのにも道というものがある。賢者に対してはこの人を貴んで敬して、不肖者に対してはこの人を畏れて敬して、賢者には親しんで敬して、不肖者には疎んじて敬す。その敬自体は一であるのだけどその情(情報・実情)は二なのであり、真心があって正直素直で害したり傷つけたりすることがないのは、人と接することにおいて常にそうするのである。これが仁人の質(きじ:生地・基本)というものである。

 真心があって信じられるようにしてこれを質として、素直と正直を統一原理として、礼義によってこれらを文(かざ)り、倫類(類推)することによってこれらを理として、小さな声でささやくこともほんの少しだけ体を動かすことにも、一によって法則としなければならない。詩経 大雅・抑篇に「隠さないで傷つけないで そうすれば 法則にならないことはない」とあるのはこのことを言ったのである。

八章

 恭敬が礼で調和は楽であり、謹慎は利であり闘怒は害である。だから、君子は礼に安んじて楽を楽しんで、謹慎することはあっても闘怒することはない。こういったわけであるから、百挙しても過つことがないのである。小人はこれの反対である。

九章

 忠の順を通ずると、険の平を権(はか)ると、禍乱にも声に従うのみであるのと、この三つのことは明君でなければしっかりと知ることはできない。

 争ってから善くなり、逆らってから功績が挙がり、死を覚悟して私心がなく、真心を致して公平であるならば、これが忠の順を通ずる(真心が善で同ずることを実現させる)と言って、信陵君がこれに似たものである。

 奪ってから義があり、殺してから仁があり、上下の位を入れ替えてから貞(消極的な守りの正しさ)があり、功績は天地と一体化していて恩沢は生きているもの術に及ぶならば、これを険の平を権る(混乱を平らかにして制御する)と言って、湯王と武王がこれである。

 過ちを犯しているのに感情だけで同じて、調和しているのに常がなく、ものごとの是非を顧慮することなく、ものごとの良い面と悪い面のバランスを整えることもなく、ただ軽々しく迎合していい加減な行動をして狂った人をさらに迷わし惑わすのならば、これを禍乱にも声に従うのみ(混乱と災難の最中であるのにそれを考えもせずに心地よい声だけを受け入れるだけ)と言って、飛廉と悪来がこれである。言い伝えに「切ることで整えられて、曲げることで従順となり、差異があるからこそ一である」とあり、詩経 商頌・長発篇に「小玉大玉 これらの宝を頂いて そうして諸国の代表になる。と言ったのはこのことである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■特に七章については、現代でもとても重要で有用なことであると思う。▼関連・論語・憲問第十四より「ある人が孔子に言うには『怨むべきことをしてきた人に恩徳でこれを報いるのなら、いかかがでしょうか』孔子が答えて『怨みに恩徳で報いたら、恩徳には何で報いたらいいのか。直(裏表と私心のない心)で怨みに報いて、徳で恩徳に報いるのだ』」