115.荀子 現代語訳 臣道第十三 二〜四章

二章

 命令に従って君主に利益を生み出すことを順と言って、
 命令に従っていても君主に利益を生み出さないことを諂(へつらう、よこしまなことをする)と言って、
 命令に逆らいながら君主に利益を生み出すことを忠(まごころ)と言って、
 命令に逆らってしかも君主に利益を生み出さないことを簒(うばう)と言う。
 君主の栄辱のことなど考えもせず国の良否についても顧みることなく、軽々しく動いてはいい加減なことばかりするのに、俸禄だけはしっかり守って自分個人の交友を養うだけならば、これは国賊というものである。

 君主が、過った考え方をして過った事を犯して、国家を危うくして自分の国のお社を守れなくなってしまうような可能性のあるとき、
 大臣や父兄に当たる人が君主に進言して、これが用いられれば良しとなるのだけど用いられなければ去るということがある。これを諫(いさめる)と言う。
 君主に進言して、これが用いられれば良しとなるのだけど用いられなかったとき死ぬしかなくなるときがある。これを争と言う。
 皆で知力を合わせて力を一つ同じ所へ向け、群臣百官をうまく統率して、君主に強いて君主を矯正して、君主の心は落ち着かなくてもその言うことを聴かざるを得ないようにして、遂に国の大きな患いを説いて国の大害を除いて、君主を尊んで国を安んずることを成功することがある。これを輔(たすけ)と言う。
 君主の命令にしっかりと抗って、君主の権力をうまく利用して、君主の行う事業に反対して、そうして国の危険を安んじて、国の辱めを除いて、功労と征伐は国にとっての十分に大きなものとなることがある。これを拂(はらいのける)と言う。

 こういったわけであるから、諫争輔拂の人は国のお社の臣下であり、国の君主の宝であり、明君の尊ぶところ、厚くするところなのである。そうであるのに、暗君はこれらのことについて惑いを生じて、この人たちを自分の賊とするのである。だから、明君が賞する所が暗君の罰する所となり、暗君の賞する所が明君の殺す所となるのである。

 伊尹と箕子は諫というべきもので、比干と呉子胥は争というべきもので、平原君が趙で行ったような事が輔というべきもので、信陵君が魏で行ったような事が拂というべきもである。言い伝えに「道には従っても、君に従うことはない」とはこのことを言ったのである。

 だから、正義の臣下が用いられるならば朝廷が邪になるようなことはなく、諫争輔拂の人が信じられるようになれば君主も過ちから遠ざかることができ、爪牙の士が用いられるようなれば仇敵ができることはなく、辺境の臣下があれば国座会の土地を失うこともない。だから、明君は人と行動を共にすることを好むのだけど、暗君は独りを好んで、明君は賢者を尊んで能力者を使って盛況の時を享受するのだけど、暗君は賢者を妬んで能力者を畏れてその功績を滅して、忠臣を罰して賊臣を賞する。こういったことをこそ至闇と言って、桀王と紂王が亡びた理由である。

三章

 聖君に仕えている者は聴従することことはあっても諫争する必要はなく、
 中君に仕えている者は諫争することはあっても諂諛する(へつらってご機嫌をうかがう)ことはなく、
 暴君に仕えている者は尻ぬぐいをすることはあっても君主を矯正することはできない。

 乱世で脅迫を受けて、暴国に行き詰まり居るしかなくなり、これを避ける所がなくなってしまったのなら、君主の良いところだけを見るようにして、善事ばかりを挙げるようにして、悪事はうまく理解して、失敗は隠すようにし、長所だけを言うようにして短所について計るようなことはせず、これを普段のあたりまえの行い(成俗)にするようにする。詩に、「国に運命あり 人に告ぐべからず そうして身の危険を防ぐのだ」とあるのはこのことを言ったのである。

四章

 身を恭しく持して敬う心をでへりくだり聴き従って素早く行い、敢えて個人的な利益によって選択するような事がなく、上の人の善に同ずることを志とするのは、聖君に仕えるときの義というものである。
 
 忠信の心を忘れずにへつらうことなく、諫争することはあってもご機嫌うかがいをすることがなく、腕をぐっと力強く曲げるかのように強く折れて、志は表面にも現れるかのようで人の足を引っ張る心がなく、正しいことは正しいと言って、正しくないことは正しくないと言うのは、中君に仕えるときの義というものである。

 調和していても流れることがなく、柔らかであっても屈することなく、寛容に受け入れても乱れることがなく、それでも君主をよく変化させて、時に応じて内に入っていくのは、暴君に仕えるときの義というものである。

 暴君に仕えるのは、馬を御するようなものであり、赤子を養うようなものであり、飢えている人を養うようなものである。だから、恐れさせて過ちを改めさせ、心配させて過去の行いを省察させ、喜ばせて道に入れて、怒らせることで敵を除くのならば、要所要所で自分の思い通りになるのである。書経に「命令に従っても道理に反することなく 微かに諌めて絶えることなく 上に居るなら明らかに 下になるならへりくだる」とはこのことを言ったのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■言葉の定義が出たのでまとめておく

順・善に同じること
諂・表面的に従って私利を達成すること
忠・表面的に逆らっても善を達成すること
簒・表面的に逆らってさらに私利を達成すること
国賊・給料をもらいながら、職務を全て忘れて、常に自分のことしか考えてないこと

諫・辞職や亡命の覚悟で善を進めること
争・死の覚悟で善を進めること
輔・君主に気がつかれないように君主の過ちの尻拭いをすること
拂・君主に逆らって君主に過ちを起こさせないよう操ること

■今日から、しばらくの間は、荀子の現代語訳にも力を入れれることとなった。それは他でもない。暗君と態臣の暴政から逃げたからである…。経験者として語るが、荀子の言っていることは、現代でも完全に通用するものであり、符節を合すがのごとしである。ただ、明主に仕える方は体験したことないので、是非とも体験したいなと思っている。

■三章は韓非子の説難と特に関係が深い。