118.荀子 現代語訳 致士第十四 三〜十章

三章

 民衆を得ることができれば天をも動かすことができ、
 意(思い、心)を楽しませることができれば長寿となり、誠信(心に裏表なく、心と行動に隔たりがないこと)であるならば神のようで、
 嘘ハッタリばかり言っていれば魂を駆逐することになる。

四章

 人の主の憂い患いは賢者を用いると言うことにあるのでなくて、賢者を実際に用いることにある。賢者を用いると言うのは口であるけど、賢者を退けるのは行動である。口と行動が反対であるのに、賢者が来ることを望んで不肖者が退いてほしいと願っても、それはどれだけの難儀と言えるだろうか。

 夜に虫を捕まえてばかりいる人は、火を明るくして樹を振ることに集中するものだ。火が明るくないならば、どれだけ樹を振ったところで何も得ることはできない。

 今、人の主のうちで、この虫取りの人が火を明るくするように、その徳を明らかにする人があるのならば、天下もこの人に帰して、虫取りの人がこの明るい火に多くの虫を集めるかのようになるであろう。

五章

 事に臨んで民衆と接するのに、義によって変化に応じて、寛大と余裕の心で多くを受け入れ、恭敬によってこれを先導するならば、これが政の始というものである。
 そうしてから、ちょうどよい中をとって和を致して、慮って判断し、民衆を助けていくならば、これが政の隆というものである。
 さらにこの後、誅罰や報償によって進退するようなことが、政の終である。

 だから、一年でこれを始めて、三年でこれを終えることができる。進退誅罰のような最後にやるようなことを最初からやれば、政令が行われることもなく、ただ上下の怨みが病となるだけであり、乱れの生じる原因というものである。書経・康誥篇に「義刑義殺であったとしても、即刻これを行ってはならない。『あなたが善で同ずることがないだけである』と言え」とあるのは、この教え(善で人を先導すること)を先にすべきことを言ったのである。

六章

 度量衡は物を平らかにするための基準であり、礼は節(ちょうどよくすること)の基準である。度量衡を使って数を立て、礼を使って人間関係を定め、徳によって位を序して、能力によって役目を与える。

 そもそも節奏(ちょうどよいところに保つこと)には厳格で第一であることを求めて、衆生に余裕があることを求める。節奏が第一となれば文(かざり)が生まれ、衆生に余裕があれば安んずることとなる。上に文があって下が安いのならば、これは巧名の極みと言うもので、これ以上何かを加えることはできない。

七章

 君主なる者が国の隆であり、父なる者が国の隆である。隆が一であるならば治まることとなり、二であるならば乱れることとなる。昔から今に至るまで、二隆が重きを競い争いそうして長続きしたことなどはないのである。

八章

 師(善を身につけて模範となる人)であるための術は四つある。そうして博習であることはこれとは全く関係がない。

 尊厳のまなざしで仰がれて憚られるほどであるならば師となることができる。
 老年で信頼されるのならば師となることができる。
 自説を展開して凌がれることなく犯されることもないのならば師となることができる。
 微かで微妙なことを知っていて理論も備えているのならば師となることができる。

 だから、博習であることは師となることと関係がないのである。

九章

 水が深ければ対流が起こり、木の葉が落ちれば土を培い、弟子が通利(利に通ずるようになれば)師を思うこととなる。詩経 大雅・抑篇に「言葉を出せば 反応があり 徳があるのなら 報われないことはない」とあるのはこのことを言ったのである。

十章

 賞が過ぎる(僭)ということがないようにし、罰が過ぎる(濫)ということがないようにする。

 賞が行きすぎて僭越なものとなれば利が小人にまで及んでしまうこととなり、罰が氾濫するのならば害が君子にまで及んでしまうことになる。もしも、不幸に過ってしまうのならば、行きすぎて僭越なものとなることがあっても氾濫することがないようにすべきである。その善を害するよりは淫を利した方がまだましだからである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■全体的に一貫性がない。荀子という書物は、荀況の著作を後代にまとめたものであるそうだから、その影響もあるのであろう。

■五章についてはとても重要なことであると思う。そして、自分自身もかなり見落としていたことだった。世の中では権力闘争のために、とかく賞罰を先に出すけれど、賞罰を先に出すことで治世を得ようとするから、その後で失敗するのだ。これはとても微妙な働きであるけれど、言われてみれば当たり前でとても大事なことである。賞罰と言うのは、ある程度ものごとが固まった時に、そのものごとを確定するために行うものなのである。

■七章について、隆をそのままにしておいた。今までは、尊ぶこと、第一にするべきこと、などとして訳している。

■十章の三文目について、ここは敢えて賞と罰という主語を出さず絶妙な掛け言葉的表現をしていてとてもうまい、つまり、罰よりは賞を多くせよということと、暗喩的に賞も罰も濫:やたらめっぽうになるよりは、僭:一つが大きすぎる方がまだいいということを表現している。そして、この後者は微かな程度考慮すべきであることもまた微かに表現しているのである。

■このように、実は現代語訳をするに当たって、細かい漢字の意味の違いにもかなり気を配っている。逆に言えば、漢字の意味、言葉の意味、それは「知」:common senseと言われるものにある程度以上熟達しなければ、荀子を読みこなせないことを示している。事実、私も荀子を購入した三年ほど前、1ページ目で読むの断念したのだった…