73.学問のすすめ 現代語訳 十七編 第八・九段落

第八段落

第二 顔色容貌は快いものにして、一見して、ただちに人からいとわれることのないようにする。

 肩を高くしてへつらい笑い、巧言令色、太鼓持ちが媚を売るかのようにすることは実にいとうべきことではあるけれど、苦虫を噛みつぶして熊のきもをすすっているかのように、黙ってほめられて笑ったら損をしたかのように、いつも胸に痛みを抱えているかのように、生涯父母の裳にいるかのようにしていることもまた甚だいとうべきことである。

 顔色容貌が活発愉快であることは、人の徳義の一カ条であって、人間交際でも最も大切なことである。人の顔色というものは、家の門戸のようなものである。広く人に交わって来客にも不自由がないようにするためには、まずは門戸を開けて入口を掃除して、とにかく寄りつき易くすることが重要である。

 そうであるのに、今、人に交わろうとして顔色を和やかにすることに心を用いないばかりでなく、かえって偽君子の真似をしてことさらに渋い風貌をすることは、戸の前に骸骨をぶらさげて門の前に棺桶を安置するようなことである。誰かこれに近付く者があるだろうか。

 世界中では、フランスのことを文明の源と言い知識の中心であると称しているけれど、それが何故かと考えてみれば、国民の常の行いが活発気軽で言語容貌も親しむべきものであり近付きやすい雰囲気があることがその原因の一カ条である。

 こう言う人もあるだろう。言語容貌は人々に生まれつきのものであるからには、自分が勉めたところでどうすることもできない。こんなことを論じていても何の無益なことばかりであると。

 この言葉は、確かに正しいようではあるけれど、人智発育の理を考えれば屁理屈であることがわかるはずである。おおよそ人心の動きというものは、これを進めて進まないということはない。このことについて、手足を使って筋肉が発達すること何も違っていることなどない。逆にいえば、言語容貌というものも人の身心の働きである以上は、これを放っておいたら上達するということもないのである。

 そうであるのに、日本国中の習慣で、この大切な身心の働きを捨てて顧みないことは、実に大きな心得違いというものではなかろうか。だから、私の望むところでは、改めて今日から言語容貌の学問というほどではないけれど、この働きを人の徳義の一カ条としてなおざりにするのではなく、常に心に留めて忘れないようにしたいと思うのである。

第九段落

 また別の人が言うには、容貌を快いものにするということは表を飾るということである。表を飾ることで人間交際の要とする時は、ただ容貌顔色ばかりでなく、衣服も飲食も飾り、気に食わない客でも接待して、身分不相応のごちそうを出すなど、全く虚飾によって人と交わるという弊害もあるだろうと。

 この言葉にも確かに一理あるようであるけれど、虚飾とは交際の弊害でしかなくて本の目的であるということではない。事物の弊害というものは、ややもすれば、本当の目的に反対することが多い。過ぎたるはなお及ばざるがごとしとは、すなわち弊害と本当の目的とが相反対することを評した言葉なのである。

 たとえば、食べ物の要は本来身体を養うことであるのだけど、もし食べ過ぎてしまえばかえって健康を害してしまうことと同じである。栄養とは食べ物の本当の目的で、過食はその弊害である。弊害と本当の目的は全く反対するものとも言える。

 ということは、人間交際の要も和やかで正直な飾り気のないものであることにのみあるのであって、その虚飾に流れるならば、決してそれは交際の本当の目的ではない。おおよそ世の中では、夫婦親子より親しい者はいない。これは天下の至親といわれるものである。してみるに、この至親の仲を支配しているものは何であろうか。そこにあるものは、ただ和やかで正直な飾り気のない素朴な心だけなのである。

 表面の虚飾をしりぞけてまたこれを払いのけ、これを綺麗に掃除し尽くして、そして初めて至親があるということを知らなければならない。そうであるならば、交際の親睦は正直な飾り気のないものの中にこそ在るのであって、虚飾と並び立つことはできないのである。私は、今の人民に向かって、その交際が、親子夫婦のようであることを別に臨んでいるわけではないけれど、ただその向かうべき方向を示しているのである。

 今日、世間の人の評判で、あの人は気軽な人だとか、気の置けない人だとか、遠慮のない人だとか、さっぱりした人だとか、男らしい人だとか、または口数は多いけどそれはほどほどの人だとか、騒々しいけれど憎めない人だとか、無言だけど親切そうな人だとか、こわいようだけどあっさりした人だとか、そのように言われるのは、あたかも華族交際の有様を表に出して、和して正直な飾り気のないことを称したものなのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■このころは、とにかく無口なしかめっつらが良いものだとされていたということであろう。現在では事情は変わって、こういったことを説教すべき人は減ったように思う。それとは逆に、巧言令色、つまり、人にへつらうようなうまいことを言う人が増え、ご機嫌伺いのために面白くもなく楽しくもないのににこにこしている人が増えたのではないか。人が喜ぶようなことを言うことを仏教では愛語と言い、にこにこした顔をすることは英語でスマイルと言って、これらは確かに悪いことではない、むしろとても善いことである。しかし、悪いことであることは、その動機が、その相手のためを思ったまごころ(忠)から出るのでなくて、自分のためを思った利己心から出ることである。よくよく気をつけたいことである。