54.学問のすすめ 現代語訳 十三編 第四〜六段落

第四段落

 今述べたことの他に、驕傲と勇敢、粗野と率直、頑固と着実、浮薄と鋭敏などのように、相い対しているように、どれもその働きの場所と、強弱の度合と、向かう方向によって、あるいは不徳となったり、あるいは徳となることもあるのである。

 ただひとつ、全く不徳の一方に偏って、場所にも方向にもかかわらず不善のうちでも不善であるものは、怨望の一カ条くらいのものである。

 怨望は、他の心の働きの陰に隠れているようなもので、進んで取るようなものでなく、他の人の有様と自分を比べて不平を抱き、自分のことは考えないで人にばかり多くを求め、その不平を満足するために使う手段はというと、自分を良くしようとするのでなくて他人の足を引っ張ろうとするものである。

 たとえば、他人が幸せなのと自分が不幸せなのを比較して、自分に不足する所があると、自分が進んで満足するような方法を考えないで、むしろ他人の方を不幸に陥れ、他人の有様を下げることで、自分と相手の差を平均しようとするのである。

 これはいわゆる、「これを悪(にく)んでその死を欲する」というものである。だから、こういった輩が不幸を満足しようとすると、世の中の幸福が減っていくばかりで少しも益というものがない。

第五段落

 欺詐虚言という悪事も、それ自体が悪事であるからには、これと怨望を比べてにれば、同じようなものであるという意見もある。これに対して答えると、確かにそうであはるのだけど、事の原因と事の結果とを区別すれば、同じようなものであると言うことはできない。

 欺詐虚言は、そもそからして大悪事であるのだけど、必ずしも怨望を生じる原因でなくて、多くは怨望が原因で起きることなのである。怨望というものは、衆悪の母のようなもので、人間の悪事でこれによって生じないものはないほどである。

 猜疑、嫉妬、恐怖、卑怯といった類のものは、全て怨望から生じるもので、それが内の形として現れるものとしては、私語、密話、内談、秘計、これらが破裂して外の形として現れるものとしては、徒党、暗殺、一揆、内乱、などの毛ほども国に利益を生み出さないものばかりで、災いが全国に波及することとなり、主客のどちらも被害を蒙ることになる。これは、表向きは皆のためと言って、私事ばかりをたくましくするというものである。

第六段落

 怨望が人間交際に害のあることはこのようなものである。今その原因を考えてみると、それはただ窮という一字に在る。ただし、その窮は、困窮貧窮と言った窮ではなくて、人の言葉を塞いで人のやろうとすることを妨げるというような、人類の天然の働きを窮することなのである。

 貧窮困窮が怨望の原因であるならば、天下の貧民はみな不平を訴えて、富貴というもの自体があたかも怨の府のようになって、人間の交際は一日も保つことはできないはずであるけれども、事実は決してそうではない。どれだけ貧乏な人であっても、どうして貧乏で賤しいのかその原因を知って、その原因が自分の身から所持ていることを了解すれば、決してみだりに他人を怨望するということはないだろう。

 その証拠はことさら挙げ連ねる必要はなくて、今日の世界では貧富の差があるのに、それでも人間の交際が成り立っていることを見れば、明らかにこれを知ることができる。だから、富貴は怨望の府でなくて、貧賤は不平の源でないのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■この怨望ばかりで動いている人をたまに見かける。というか正直なところ身近にいるのだけど、ほんとにその心の貧しさを可哀想だなぁと思う。そして、私利私欲によって、なんの躊躇もなく人に迷惑をかけているところを見ると、とんでもない勢いで腹が立つ。というか恥ずかしくないのかと思う。全てばれているのに。恥を知らず恥を恥とも思わず怨望で動く人間は、禽獣(とりやけもの)と言ってもよく、国家や組織のためにはすぐに排除すべきと儒学ではなっている。仏教では、それでも人間として扱えとなっている。キリスト教だと、真珠に豚とかと表現されるように、獣と同じだとしたうえで相手にしないようにとなっている。悪は憎むべきことであるけれど、この悪それ自体への怒りはなかなか納められるものではない。悪それ自体への怒りの難しいところは、それが常に人間から発せられるところである。いかに悪を悪だけ憎んだところで、それが必ず人間から出る以上は、人間を憎むと言うことに少なからず繋がるのである。悪への怒りで悩んでいる方は私の以前に書いた「嫌いな人に関する考察」を参考にしていただきたい。http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20111030

■最初のところで論語の「六言の六弊」というのを思い出したので、自戒も含めてここに紹介しておく。p537 陽貨第十七

孔子子路、お前は六つの美徳の六つの弊害というものを知っているか」
子路「まだ知りません」
孔子「よし、ではそこにおれ、今から説明しよう。
1.仁を好んで学ぶことを好まないのならば、その弊害は愚である。
2.知を好んで学ぶことを好まないのならば、その弊害は蕩である。
3.信を好んで学ぶことを好まないのならば、その弊害は賊である。
4.直を好んで学ぶことを好まないのならば、その弊害は絞である。
5.勇を好んで学ぶことを好まないのならば、その弊害は乱である。
6.剛を好んで学ぶことを好まないのならば、その弊害は狂である。」

1.人に優しくするばかりで、学んでその度を過ごさないことを知らないならば、かえって相手を駄目にして自分を駄目にしてしまう愚という弊害に陥る。
2.知識や知力を増すことばかり考えて、学ぶことでその方向を正さないならば、学問と知の方向が定まらずどこに向かうか分からない蕩という弊害に陥る。
3.信じることは大事なことであるが、学ぶことをしないで「信じるべきもの」をしらないならば、自分や相手を損なう賊という弊害に陥る。
4.実直に事実をそのまま口に出し表に出して、学ぶことによってそれを言わない方がいいときを知らないのなら、人や世間に厳しすぎる絞という弊害に陥る。
5.何でも胆力を振り絞って行い、学んで行うべきことと行わざるべきことを知らないのなら、上を凌いで世間の秩序を乱す乱という弊害に陥る。
6.頑なに自分を守ることを好んで、学ぶことによって守るべきことを知らないのなら、軽挙妄動をしてしまう狂という弊害に陥る。

このように、学ぶことによって、正しい道を弁えないのなら、美しく勇ましい美徳にも弊害が訪れる。戒めなければならない。