56.学問のすすめ 現代語訳 十三編 第十〜十四段落

第十段落

 今述べたような女中の一例を見ても、大抵の世間の有様は推測して知ることができる。人間の最大の禍(わざわい)は怨望に在り、怨望の源は窮(社会的な状況によって窮屈にさせられること)から生じたものであるからには、人が言論の自由を持たなければならないし、人の経済的自由は妨げられてはならない。

 試みに欧米諸国の有様と日本の有様とを比較して、その人間の交際においてどちらがよく御殿のような状況を脱しているのかと問う者があったら、私は、今の日本を御殿と全く同じだとは言わないけれど、その御殿との境界からどれだけ離れているかということを論ずるならば、日本はこれに近くて、欧米諸国はこれから遠く離れていると言わざるを得ない。

 欧米の人民は、貪吝奢侈でないということはないし、粗野乱暴でないというわけでもない、偽りごとをする者もおれば、欺く者もいて、その風俗は決して善美というわけではないのだけど、ただ怨望隠伏のことに関しては必ず我が国と状況が異なっているところがある。

 最近の識者の間では、民選議院(国会)の説もあるし、また出版自由の論もある。その得失はとりあえずおいておいて、この論説が起こった理由を考えてみると、識者の所見は、確かに、今の日本国をして昔の御殿のようにさせまいとし、今の人民をして昔の御殿女中のようにはしないようにし、怨望に代えて活動を促し、嫉妬の念を絶って相競う勇気を励まし、禍福毀誉はことごとく自力でこれを取り、満天下の人にとって全てが自業自得の世の中にしようというものなのである。

第十一段落

 人民の言論の自由を塞いでその経済の自由を妨げるようなことは、専ら政府に関わることで、にわかにこれを聞くと、この病は政治に限った話のようではある。けれども、この病は必ずしも政府に限ったものではなく、人民の間でも行われていることで毒を流すことが最も甚だしいものであるからには、政治のみを改革してもその源を除くことはできない。今この巻末に、さらに付けくわえて政府の外のことについて論ずることとする。

第十二段落

 本来、人の心は社会との交わりを好むものであるけれども、習慣によってはかえってこれを嫌ってしまう場合もある。世の中には、変人奇人と言って、ことさらに山村や僻地に居て社会との交わりを避ける者がいる。これを隠者と名付ける。または、真の隠者で無かったとしても、世間の付き合いを好まないで家に閑居して、俗塵を避けているのだなどと言って得意の顔色をする者もいる。

 こういった輩の思いを察してみると、必ずしも政府の処置が気に入らないと言って身を退けているばかりではなく、その心が虚弱で外に接する勇がなく、その度量も狭小で人を容れることができなくて、人を容れることができないと相手の方もまたこれを容れることができず、あちらも一歩退いてこちらも一歩退いて、歩みが互いに遠ざかり、遂に異類の者のようになり、後には敵のようになってしまって、互いに怨望する間柄になってしまうことがある。これは、世の中でも大きな禍(わざわい)と言うべきである。

第十三段落

 また、人間の交際でも、相手自体を見るのでなくて、その過去の足取りを見るか、もしくは、その人の噂を遠くから聞いて、少しでも自分の思いと違うようなことがあると、同情して憐れむ心を起こさずに、かえって忌み嫌うような念を起し、その人を嫌うことが実を越えて甚だしくなる場合が多い。これもまた、人の自然な心と習慣によってそのようになってしまうものである。

 物事の相談に伝言文通では整わないものも、直談判すると丸く収まるということもある。また、人の常の言葉に、「実は斯くの訳なれども面と向かってはまさか左様にも」(実はこいった訳で来たのだけれども、面と向かってみると、まさかこんな悪気が無かったとはつゆ知らずに)ということもある。

 すなわちこれは人類の至情というものであって、勘忍の心があるところである。既に堪忍の心が生じているときは、情実も互いに相通じて怨望嫉妬の念はたちまちにして消えてしまうしかない。

 古今に暗殺は多いのだけれど、私が常に言えることもある。もし良い機会があって、その殺そうとする方と、殺されようとされている方が数日の間同じところに居て、互いに隠すことなく、自分の気持ちを言いあうことがあるのならば、どんな敵であっても必ず和解するばかりでなく、むしろ無二の朋友になることさえあると。

第十四段落

 今の述べたような次第で、言葉を塞いで行動を妨げるような事は、ただ政府の身の病では無くて、全国の人民の間で流行しているものであって、学者と言ってもこのことを免れることは難しい。人生活発の気力は、何かに触れないと生じ難い。自由に言わせて、自由に働かせて、富貴も貧賤もただ本人が取るのか取らないのかに任せて、他からこれを妨げてはならない。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■第十三段落の話は、福沢が言うと重みがある。というのも、福沢が剣の達人だったかどうかは知らないけれど、暗殺されそうになると、彼は絶対に逃げいていたということらしいからである。殺し合いが無意味なことと、殺しに来る方も決して悪い人間ではない。ということを信じていたからこそそのような行動ができたのだと思う。動乱期はそう言った殺し殺されの間柄であったかも知れないが、事実、後々無二の親友となった人もいるのかもしれない。世の中には、事実害悪ばかり垂れ流して、人に悪い影響ばかり与えているような人もいる。しかし、そいうった人にもそういった人の役割というものがあるのだから、それも計算に入れるのが真の聖人だと確か荀子に書いてあった。

■禍(わざわい)は、敢えて、災いとしていないのだけど、本来、災いは、天からもたらされる災害だけを示している言葉で、この「災」という字の形からもそれが感じていただけると思う。この漢字ばかりが「わざわい」の現代語であることは、今の世の、象徴とも言うべきことかもしれない。つまり、人がもたらすトラブルや事件や火事などは、易経には「眚」と書かれていて、「災い」とは分かれている。この二つを混ぜたのが「禍(わざわい)」であると思われるのだけど、最近は、皆「眚」の原因を、人以外のものや、自分以外に求めているから、「災」という漢字ばかり使っているように思う。人災という言葉もあるけれど、この前の原発事故などは、東電他原子力ムラ、また高エネルギー生活を欲している我々自身が原因よる「眚」に他ならず、決して誰かや自然のせいではないのである。そのことは、自分自身のこととしてしっかり肝に銘じなければならない。