57.学問のすすめ 現代語訳 十四編 第一〜三段落

第十四編

心事の棚卸

第一段落

 人の世を渡る有様を見てみると、自分で心に思っているよりも案外に悪を為して、自分で心に思っているよりも案外に愚かな働きをし、自分の心の中で企てていることよりも案外に功を成さないものである。どんな悪人であっても、生涯の間とにかく勉めて悪事をしようと思っている人はいないけれども、物事に当たってみたり接しているうちに、図らずして悪念を生じて、自分自身悪いことをしていると知りながら、いろいろ身勝手な説を立てて、無理やりに自分を慰めている人がいる。

 また物事を行っているうちは決してそれを悪事だと思わず、少しも心に恥じているところが無いばかりか、一心一向に善いことだと信じて、他人に自分と違う意見があろうものなら、かえってこれを怒りこれを怨むほどになることもあるのだけど、年月を経て後々考えてみると、大いに自分の不行き届きで心に恥じ入ることもある。

第二段落

 また、人には智愚強弱の別はあるのだけど、自分で自分を禽獣(とりやけもの)の智恵にも及んでいないと思う者はいないだろう。世の中にある様々な仕事を見分けて、この事ならば自分の手でなんとかできることと思って、自分に相応してこれを引き受けるのではあるけれども、その事を行っている間に思いの他失敗が多くて、最初の目的を達することができず、世間からも笑われて自分でも後悔することが多くある。

 世の中で大きな功業を企てて失敗する人を傍観すると、実に片腹に耐えがたい程の愚行をしたように見えるけれども、そのこれを企てた人はさほどに愚かと言うわけではなくて、よくその実情を確かめてみるとまたもっともな次第もあるものである。つまるところ、世の中のことは生物であって、簡単にその変わり目というものをあらかじめ知ることはできない。こういった理由で智者であっても案外に愚かな働きをする者が多い。

第三段落

 また、人の企てることは大ごとなのであって、事の難易度大小と時間の長短を比較することは甚だ難しい。フランキリンがこう言ったことがあった。(恐らく、アメリカ独立宣言草案者のフランクリンのことと思われる。)「十分だと思っている時でも事に当たってみると必ず足らないと感じる所がある。」この言葉は本当にそうである。

 大工に仕事を請け負わせ、仕立て屋に衣服を注文すると、十に八九は必ずその日限を守るものだ。このように、日限に遅れてしまう者があるのは、決して故意にやったことではなく、最初に仕事の時間と期日との関係を精密に比較しなかったことによって、図らずも違約となってしまったものである。

 さて、世間の人が大工や仕立て屋に向かって違約を責めるということは決して珍しいことではなく、これを責めるのにも理屈が無いというわけでもない。大工や仕立て屋は常に恐れ入り、お客がよく道理の分かっている人物のように見えるのだけれども、そのお客の方が自ら自分の請け負った仕事について、果たして日限の通りに成したことがあるだろうか。

 田舎の学生が、田舎を出るときは、どんな苦労をしてでも三年の内に成し遂げると心に決めて、よくその心の約束を守れるだろうか。思いついたような閃きで喉から手が出るほど欲しい原書を集めて、三か月の間にこれを読み終わると心に約束した者が、果たしてよくその約束事を果たせるだろうか。

 有志の士君子何某が政府に協力するならば、この事務はこのようにして、あの改革もあのようにして、半年の間に政府の面目を改めることができると言って、再三建白した上にようやく本望を達して政府に勤め始めて、果たしてその前日の心事に背かないことがあるだろうか。

 貧乏学生が、自分に万両ほどの金があったら明日から日本国中に学校を建てて、家に不学の輩というものがないようにしてやるのにと言っている者を、今日良縁で三井や鴻池の養子とした場合、果たしてその言葉はそのように実行に移されるのだろうか。

 こういった夢想については、数え上げるとキリがない。みな、事の難易と時の長短を比較しないで、時間を計るときには時間があたかも長いように見積もり過ぎて、事を視るときはあたかもその事が簡単であるかのように見積もり過ぎることによる罪なのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■「言うは過ぎやすくして易く、行うは及ばずして難し」(言うことは、大げさになりがちで簡単である。けれども、行うことは自分が思っているほどに及ばないことが多くて難しい」口は慎んだ方が良いという理由はまさにここにあるように思う。つまり、できるだろうと思って安請け合いをしたり、大げさなことを言うと、あとあとその言葉に自分の行動が及ばなくて恥をかいたり、最悪な場合では信用を失ってしまうことさえある。これが口を慎まなければならない一番の理由であると思う。有言実行という言葉もあるけれど、これが称賛されるということは、有言実行がいかに難しいことかという何よりの証拠だと思う。

■処世術の書かれた「菜根譚」には、こういったことに関することが多く書かれている。そのうちで私の頭に残っているのは、「仕事に手を付け始めるときは、必ず手を引く時のことを考えておけ」というものである。手始めというのは、心もはやるし、簡単に入りやすい。しかし、事が思うように進まなくなってくると、無理くりにでもなんとかうまくやろうとか思ったりするものである。しかし、こういった時は、すぐに手を引いた方が良い。投資とかで損切りと言われるもののことである。損切りできずにこだわり続けると、やったことの方を後悔することになる。そうであるから、何かに手を付けるときは、必ず「手を引く時の状況」を思い描いていないとならない。

論語には、事の進め方の最善の方法として、「子、四を絶つ。意なく、必なく、固なく、我なし」とある。