44.荀子 現代語訳 非十二子第六 六・七章

六章

 天下と心を共有してその心を服するためには、位が高くて貴ばれる立場でも人に驕ることなく、聡明でその知が遠く及ばない所にあっても人を追い詰めることはなく、効率的にかつ迅速に動くことができても人と先を争うことはなく、剛毅で勇敢であっても人を傷つけることはなく、知らないことがあれば素直に問い、うまくできなければ素直に学び、うまくできたとしても必ず譲る。このようでなければならず、このようであって徳があるとすることができる。

 君に接するには臣下としての務めを果たし、人の集まりでは長幼の道を尽くし、年長者に対しては子弟としての敬いで接し、友と接するには礼節辞譲を忘れることなく、身分が低くて若いものに会えば寛容によってこれを教え導くことに努め、愛さないことはなく、敬わないことはなく、人と争うことはなく、ゆったりと空虚であるかのように天地の全てを包むかのようにする。このようであれば、賢者からも貴ばれ、愚者からも親しまれることとなる。(●是くの如くなれば則ち賢者もこれを貴び不肖者もこれに親しむ)このようにしているのに心を開かないのであるならば、これは怪しくて狡猾な人と言うべきだろう。子弟のような親近者であっても、刑罰が及んで致し方ないところである。

 詩経 大雅・蕩篇に「上帝が善くないわけじゃないんだよ 殷の人自分のきまりを守らない 賢者聖人いなくても きまりはそこにあるじゃない なのに耳を傾けない ならば天は味方しない」とあるのはこのことを言ったのである。

七章

 昔の仕士(仕官している人)というものは、何事にも敦厚な人であり、貴ぶべきことを行って楽しむ人であり、分け与えて施すことを楽しむ人であり、罪や過ちからは遠ざかろうとする人であり、筋を通す人であり、自分だけ富むことを恥じる人であった。(●古のいわゆる仕士なる者は厚敦なる者なり、群に合する者なり、貴ぶべきを楽しむ者なり、分施を楽しむ者なり、罪過より遠ざかる者なり、事理を務むる者なり、独り富むことを羞ずる者なり)しかし、今の仕士は、汚れ驕る人であり、傷つけて乱す人であり、思いつきに行動する人であり、利を貪る人であり、悪事に触れる人であり、礼と義を無視してただ権勢を好む人である。

 昔の処士(在野の人)というものは、徳の盛んな人であり、よく静かな人であり、身を修めて正しい人であり、時勢を知る人であり、どっしりとして落ちついた人である。しかし、今の処士は、無能であるのに有能であると自称する人であり、無知であるのに知者であると自称する人であり、貪欲で利を求めることに飽くことが無いのに無欲であると偽る人であり、やっていることは危なっかしくて汚れているのに口では慎みと清らかさを強調する人であり、一般人とは違うことをして世間を無視して自分勝手な事をする人である。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

儒学の根本的な思想には、人に自分を合すことがある。儒学や、本当の学問、知の営み、と言ったような多くの人がしていないことをしているからと言っても、それは人と違うことをしているというわけではないのである。むしろ、そういった学問や知の営みと言われるものは、多くの人に自分を合すためのものであるのである。いかに高遠高尚難解といっても、それは決して人々から離れることではなく、むしろ近付くことなのである。