43.荀子 現代語訳 非十二子第六 二〜五章

二章

 信じるべきことを信じることは信という徳であり、疑うべきことを疑うこともやはり信という徳である。賢者を貴ぶことは(賢者は必ず仁を行うから)仁の徳であり、愚かな人を賤しむこともやはり仁の徳である。言って当たるのならそれは知であり、黙って当たる(間違っていることを言わなかったこと)のならそれも知である。だから、黙ることを知っているならば、言うことを知っているのと同じである。(●信なるを信ずるは信なり。疑わしきを疑うも亦信なり。賢を貴ぶは仁なり。不肖を賤しむも亦仁なり。言いて当るは知なり。黙して当るも亦知なり。故に黙を知るは猶お言を知るが如きなり)

三章

 だから、多くの言葉を発しても、それが誰でも共感できることで細かい規範にも適っているのならば、これは聖人である。発する言葉は少なくても法則があるのならば、これは士君子である。発する言葉が多い少ないに関わらず、それらに法則がなくて、単なるその場しのぎや調子合わせであるのなら、いかに雄弁であったとしても、これは小人である。(●多言にして類あるは聖人なり。少言にして法あるは君子なり。多にも少にも法なくして流面すれば辯ずと雖も小人なり)

四章

 だから、いくら労役をしたと言っても、それが人の役に立たないことであるならば、これを姦事と言う。いくら頭を働かせたと言っても、それが先王の道に則っていないならば、これを姦心と言う。いかに弁論著述が効率的で利を生み出すからと言っても、それが礼義に従っていないのならば、これを姦説と言う。この三姦は聖王が禁じるところである。(●此の三姦は聖王の禁ずる所なり)

五章

 ずる賢くて陰険、害を為しても人に知られず、偽りと欺きは巧妙で、無用なことに弁が立ち、事の急所を突くような鋭さはないのに話は遠いところに及ぶ、この五つは、治を損なう大きな殃(わざわい)である。

 悪事を行ってブレることなく、間違いを飾って好ましいものに見せ、姦(ずるくて悪いことや無駄なこと)に馴れ親しんで心から喜び、弁論して人に逆らうようなことは、古くからの大禁である。

 頭の回転は速いのによりどころとする法則がなく、勇の徳があるのに遠慮することを知らず、遠く細かいことまで目が届くのに邪悪の方ばかりに偏ってそちらを手に取り、欲深くて役に立たず、悪事を好んで人をそそのかしては仲間とし、目先の利益に向けて足を急がせ迷い、石を背負って水中に落ち込むような自分の力をわきまえていないことをする。こういった者どもは、天下から捨てられるのである。(●知にして法なく、勇にして憚りなく、察辯にして操るところ僻り、淫大にして用乏しく、姦を好みて衆と与にし、足を利がせて迷い石を負いて墜つるは、これ天下の棄つる所なり)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■実に不思議なことに、姦人というのは、普通の人や少し賢い程度の人では気が付かないほどの、先読みをしていることがある。しかし、その先読みが、いつも下らないことや悪事の方ばかりで、その先読みを正しい方に少しでも向ければ、もっとうまくいくのに、ということが多々ある。どうやって例えたらいいのだろう。例えば、百人の試験官がいる中でカンニングをする技術について、四六時中考えていて、事実、そのような環境下でもカンニングをすることができる人がいたとする。しかし、その試験は、1+3=? 3-1=?の二問だけで、まともにやれば誰でもできるのである。しかし、その人は、他の答案者がいなくてカンニングできない状況になると、この簡単な問題さえ、考えあぐねて1+3=5 3-1=3という解答しかできないのである。カンニングの技術を磨く暇に、少し勉強すれば良かったんじゃないの?ということである。信じられないかもしれないが、邪僻(よこしまとかたより)に心底取りつかれると、本当にこういった人間になる。間違いなく荀子は、こういった人の下で苦しんだ経験があるのだろうと思う。