196.荀子 現代語訳 大略第二十七 六十三〜七十一

六十三
 君子が好む人とは、その人である。その人であるのに教えないのなら、それは不祥というものだ。君子でない人が好む人とは、その人ではない。その人でないのに学問を教えれば、それは例えば盗賊に穀物を贈り、逆賊の人に兵を貸すようなものである。

六十四
 自分の普段の行いに満足してしまっている者は、言葉ばかりが濫用されて実際の行いに過ぎることになる。昔の賢人は、その身分の賤しいことは一年中一枚の下着で過ごす人と同じであり、その貧しいことは取るに足らない人と同じであり、食べ物は粥さえ満足に食べることができず、下着でさえボロであったとしても、礼の規範に適わなければ進むことはなく、義でなければ受け取らなかった。どうして言葉が過ぎることを気にする必要があっただろうか。

六十五
 子夏は貧しくなり、その着物は疲れ果てたうずらのようであった。ある人が言った。「どうしてあなたは士官しないのですか」答えて言った。「私は、自分に驕慢な態度で接する諸侯の臣下とはならない。驕慢な態度の大夫とは二度と会わない。柳下恵は、末席の人と何ら変わらない服装をしても疑われることがなかった。これは評判が一日で出来上がったものではなかったからだ。利を争って爪先を動かしていれば、手のひらさえ失ってしまうことになるだろう」

六十六
 人の君主たる人は、臣下を取ることに慎まなければらない。匹夫は友を取ることに慎まなければならない。友というものはお互いに共有する関係であるからだ。進んでいる道が同じでないのに何によってお互いに共有するものが持てるというのか。薪を同じように並べて火を付けると火は乾いた薪に先に付き、地面を平にして水を注げば水は湿ったところに流れていく。同類のものがお互いに従い合うことはこのように顕著なことであるのだ。友がどんな人が見てみれば疑いの余地などない。だから、友人とは善人でなければならず、友人を取ることには慎まなければならない。これが徳の基本である。詩経 小雅・無将大軍に、「大きな車を 押さないように 埃が立つから 目がくらむ」とあるのは、小人とは共に居るべきでないことを言っているのだ。

六十七
 なんでも器用にこなしてそれがよくわかることは、知という徳に似ているが全く別のものである。なんでも柔軟に取り入れて意見がすぐに変わるのは、仁という徳に似ているが全く別のものである。精悍で堂々していて争いを好むのは、勇という徳に似ているが全く別のものである。

六十八
 仁義礼善と人との関係は、ちょうど家に貨財や穀物があるような関係と同じである。多くこれを所有している者は富んで、少なくこれを所有している者は貧しく、所有していないものは行き詰まってしまう。だから、大きなこともできないのに小さいなこともしないならば、国を捨てて身を捨てるやり方である。

六十九
 そもそも物事は何かに乗ってくるものである。その出てきたことには必ず自分の行いが関係しているのだ。

七十
 噂や風説はこれを滅ぼして、財貨や色欲はこれを遠ざける。禍が生じてくる理由はきめ細かな織物の糸の間にさえある。だから君子はこれを絶つようにする。

七十一
 信のある言葉とは例えば蓋をした壺の中にある。疑わしいことは口にしてはならないし、また問うたことのないことは口にしてはならない。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■六十五に関連して「言うは易く行うは難し」という言葉があるが、これは塩鉄論の一節だそうだ。私はこれに少しオリジナリティを加えて「言うは過ぎやすくして易く、行うは及ばずして難し」と思うようにしている。口を動かすことはとても簡単である。現に私でも、今すぐに「明日から聖人になります」と言うことはできる。しかし、それが実際に出来ないことは明白である。▼ずる賢い人は、口を使うことがとてもうまい。だから、叱られると、「明日から、いやそれでは遅いから今からやります」などと簡単に言う。しかし、その後を実際を見てみると、何も変わっていないということはよくあることだ。改善せよと言われた時、すぐにやりますという人よりも、慎重に考えてから答える人の方が信用できる。