197.荀子 現代語訳 大略第二十七 七十二〜八十

七十二
 知者とはものごとに明らかで理論的に答えを導くことに長けている。不誠実な付き合いをしてはならない。だから言うのだ、「君子は説ばしめ難し」と。君子を喜ばせるためには、道に依拠しなければ喜ばすことなどできない。また、こういった言葉がある。「的を外れた石つぶてはくぼみで止まり、うわさ話や風説は知者で止まる」この言葉が指し示すことこそ、邪学を奉じている諸子百家儒者を忌み嫌う理由である。是非の疑わしいことを決するためには高遠な理論を用いて、その理論が事実正しいと分かるように卑近なことを用いていれば、うわさ話や風説も止まり悪言も尽き果てる。

七十三
 曾子が魚を食べた時、余りが出たので、「これをスープにしよう」と言った。弟子が答えて言うには、「スープにすると腐りやすいので人を害するかも知れません。これは塩漬けか酒漬けにした方がよろしいでしょう。」曾子は泣きながら言った。「人を害しようとしたのではない。私は亡き両親にスープを食べさせたことがあるが、スープが腐りやすいということを知るのが遅かったことを悔やんでいるのだ。」

七十四
 自分の短所を用いて人の長所に遭遇させてはならない。だから、自分の短所は塞いで避けるようにして、何か物事を行うときは短所の部分について人に従うようにすべきである。いろいろなことを知っているのに法則がなくて散漫なこと、細かいことまで理論的に理解しているのに偏っていること、勇ましく果敢であるのに礼がないことは、君子の憎み忌み嫌うことである。

七十五
 多くを語り、それらが逐一細かいことまで法則から外れず、その言葉は誰もが共感できるのが聖人である。言葉は少ないが法則があるのが君子である。言葉数が多くても少なくても法則がなくていつも行き当りばったりなら、理論的に語っていたとしても小人である。

七十六
 国の法で、落ちているものをネコババすることを禁じるのは、民衆が自分の分限を無視して何かを得ることを忌み嫌うからである。自分の分限を知ってそれを適度に保つことができれば、天下を受けたとしても治めることができ、それができないなら妻一人妾一人でも乱れることとなるだろう。

七十七
 天下の人は、千差万別で心は同じではないけれど、それでも同じ部分もある。味のことを言う者は天下の料理人である易牙に味方し、音のことを言う者は天下の音楽家である師コウに味方し、治について言う者は三王に味方する。そして、この三王が、既に法度を定めて礼楽を制定してこれを伝えている。これを用いないで自らが改めて何かを作るのであれば、易牙の味の調和を変じて、師コウの楽譜の音律を勝手に改めてしまうことと、何が違うであろうか。三王の法がなかったら、天下はたちどころにして滅びて、国も時を待たずして死に絶えるだろう。飲みはするが何も食べないのはセミであり、飲むこともなく食べることもないのがカゲロウである。人は、飲むし食べるのに、どうしてすぐに死ぬと分かっていることに甘んじるだろうか。

七十八
 虞舜と孝己とは孝行息子であったけれども親からは愛されなかった。比干と伍子胥とは忠臣であったが君主から用いられなかった。孔子と顔淵とは知者であったが世で困窮した。暴国に脅かされてこれを避けることができないならば、その暴国の善いところを探してその善いところだけを尊んで美し部分だけ称揚するようにして、その長所である所を言って短所のことには触れないようにする。ものごとを受け入れることができるのに、それでも亡んでしまうのは誹るからであり、博く物事を知っていて心も広いのに、それでも困窮してしまうのは謗るからである。身は清くしようと思っているのにどんどんと濁っていくものは口である。

七十九
 君子は貴ばれるべきことをするけれども、必ずしも人から貴ばれるとは限らないし、実際に役に立つことをするのだけど、必ずしも人からその能力を評価してもらえるとは限らない。

八十
 ことばを設けて誓いを立てるやり方は五帝の時代の無形式なのに及ばないし、血をすすり合う盟約をするのは三王の時代のことばを設けて誓いを立てるやり家には及ばない、そして、人質を交換するやり方は盟約を用いていた春秋の五覇にすら及ばないのだ。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■七十二の「君子は説ばしめ難し」の出典は論語である。以前に書いた論語の解説があるから、それを紹介しておきたい。http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20120320