198.荀子 現代語訳 宥坐第二十八 一・二章

宥坐第二十八

一章

 孔子が魯の桓公の霊廟を配管した時、傾いた器があった。孔子が、霊廟を守っている人に「これは何の器ですか」と尋ねると、その人は、「これは恐らく宥坐という器でしょう」と答えた。

 孔子は、「私は、宥坐の器とは、何も入っていないときは傾いて、ちょうどいいくらい(中に)何かが入っているときは正しい位置になり、いっぱいになるとひっくり返ると聞いています。」と言って、後ろを振り向き、弟子に水を注ぐように言った。弟子が水を汲んできてそこに注いでみると、果たして、ちょうどいいくらい(中)になると正しい位置になり、いっぱいになってひっくり返り、空になってまた傾いた。

 孔子は、納得した様子で嘆じて言った。「ああ、どうして満ちて覆らないものがあるだろうか」子路が言った。「敢えてお伺いしますが、満ちた状態を保つ方法はあるのでしょうか」孔子は答えた。「聡明聖知とはこれを守るのに愚かさを用いて、功績が天下に及ぶのならこれを守るために譲ることを用いて、勇力が世で何も恐れるものがないのならこれを守るために用心深さを用いて、富が四海を保つほどであるのならこれを守るために謙(こころよさ)を用いる。これがいわゆる、敢えて枠の中に収まり己を損す、というやり方だ」

二章

 孔子が摂政となって政治を執り行うと、七日目に少正卯を誅殺した。弟子たちが進んで「少正卯は魯の有名人です。先生は、政治を執り行うことになって、最初にこの人を誅殺しましたが、これは失敗だったのではないでしょうか」と尋ねて言った。

 孔子は答えて言った。「座りなさい。これからお前たちにその理由を説明しよう。人には、五つの悪いことがあるが、盗みやこそ泥はそこに数えられない。

一つ目、詮索が好きで込み入ったことを考えること
二つ目、行いが邪に偏っていて頑ななこと
三つ目、言うことは偽りが多いが口が達者なこと
四つ目、記憶していることがよろしくないことばかりでしかもその知識も幅広いこと
五つ目、悪事を行って念入りなこと

 この五つのことは、一つでも当てはまるようなら、君子の誅殺を免れることはできない。そうであるのに、少正卯はこのうちの幾つかを兼ね備えていた。だから、その住処はやからが集まって群れを成すほどになり、言葉や語りは邪悪を飾って民衆を迷わすのに十分であり、その強さは魯に謀反を起こして独立できるほどだったのだ。これは小人の桀物というものである。誅殺しないわけにはいかない。

 こういったわけであるから、湯王は尹諧を誅殺し、文王は藩止を誅殺し、周公は管叔を誅殺し、太公は華仕を誅殺し、管仲は村里乙を誅殺し、子産はトウ析と史村を誅殺したのだ。この七人は、皆違う時代を生きているがその心は同じである。誅殺しないわけにはいかない。詩経に「心憂えて 心配し 小さな群れにも 心怒らす」とある。いくら小人と言っても、それが群れを成せば、これは憂うべきことなのだ。」


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想 

■やはり、大略とは比べ物にならない内容の良さだ。この位でなければ、翻訳もやりがいがない。