199.荀子 現代語訳 宥坐第二十八 三章

三章

 孔子が魯の司寇(法務大臣)となったとき、父と子がお互いを訴えるということがあった。孔子はこの二人を三ヶ月の間、同じ所に拘留した。すると、父の方が訴えを取り下げたいと申し出てきた。そして、孔子はこの二人を許した。季孫(魯の実力者)は、これを聞いて不機嫌な様子で言った。「あのご老人は、私を欺いた。私には、国家を治めるためには必ず孝を用いよと言ったのだから、今は、本来なら一人を殺して不孝者に刑罰を与えるべきなのに、この不孝者さえ許してしまった。」冉子は、このことを孔子に告げた。

 すると孔子は、きっぱりとした様子で落胆して言った。「ああ、上に過失があるのに下を殺すのなら、それはそれでいいのだろうか。民衆を教えてもいなにのに刑罰を増やすことばかりを聞いていたら、無罪の人を殺すことになってしまう。戦争で大敗しても民衆を斬ってはならず、刑法をうまく運用できないからといって無闇に刑罰をしてはならないのは、その罪が民衆にないからなのだ。

 今、禁令がゆるがせであるのに、誅殺することばかりに気持ちを集中させるのなら、それは賊というものである。農作物ができる時期は決まっているのに、税を徴収する時がその時期と関係ないのなら、それは暴というものである。教えてもいないのに、うまく功績が上がらないと責めるのならば、それは虐(しいたげる)というものである。この三つのことをやめて、それから刑罰が行われるべきなのだ。

 書経には「義によって刑罰を施し、義によって殺し、刑罰を用いるときに私心を交えてはならない。ただ、まだ教えていないことがあるだけだと言うに止めておけ」とあるのは、教えることを先にすべきことを言っているのだ。だから、先王は、刑法を施行するに当たって道理を用い、さらにこの上で自らが刑法を守ったし、もしそれができなかったとしたら、賢者を尊んで、道理を極めて、もしそれができなくても、不能者を退官させてそういった者がいないようにした。そして、こういったことができてから、さらに三年が経過して百姓はその風俗に従うのだ。

 邪悪な民衆が居てこちらに従わず、こういった人たちに対するのに常に刑罰を用いていれば、民衆も罪を知ることができる。詩経に「尹氏は大師 周の柱石 国の均しく保って 四方を治め 天子を助けて 民衆を迷わすこともない」とある。そして、こういったわけで、威厳や威信というものは厳しくあっても試みにこれを用いてはならず、刑罰は用意してあったとしても用いることがないとあるのだが、これらのことは今まで自分が述べたようなことを言っているのだ。

 しかし、今の世の中はそうではない。教えは乱れたものであるのに刑罰ばかり多くして、民衆が迷い惑って罪に落ちればすぐに刑罰を加える。このために刑罰ばかりがどんどんと多くなり、邪悪なことばかりが多くなっていく。何も荷物がない車はわずか一メートルばかりの崖さえ登れない、けれども荷物のある車でも百尋の山を登ることができる。それは、登るところが緩やかなであるからだ。数尋の垣根を越えることはできないが、百尋の山ならば子供はその頂上で遊ぶ。それは緩やかに登るからである。

 今でも、世の中の時の流れは緩やかに続いている。そうであるのに、民衆ばかりに急に何かを乗り越えさせようとするのか。詩経に「周の道は砥石のようで その真っ直ぐなことは矢のようであった このことは 君子の行う所であり 小人の見る所であった そうであるに 今はそうではなくなった だから昔を振り返ると 涙を流さずにはいられない」とある。これは何と哀しいことだろうか。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■「教えずして罰するは不仁なり」「孔明泣いて馬謖を斬る」とは、このことを言っているのだ。これはどちらかと言うと、韓非子の意見であるが、刑罰を用いるのに、肝要なことは二つある。一つ目は刑罰を行うには私情を一切交えないこと、二つ目は先に刑罰を用いることを教えておくこと、この二つ、つまりは必罰ということである。しかし、荀子は特に後者の方を強調していることになる。だから、刑罰を運用するにもその時期があること(どうしてそれが悪いことなのか理解するための時間を考慮しなければならないこと)を特に強調していると言える。韓非子孫子の場合は、ここはあまり強調されていない。