130.荀子 現代語訳 強国第十六 七〜九章

七章

 微かなことを積むことを、月ごとにするのは日ごとにするのに勝ることはなく、季節ごとにするのは月ごとにするのに勝ることはなく、年ごとにするのは季節ごとにするのに勝ることはない。

 そもそも人というものは、小事を侮って、大事が至ってからその後これの対策を考えて務めるものである。しかし、このようであるならば、常にかの小事に敦く親しむ者に勝ることはない。

 これはどうしてか。小事が至ることはしばしばあることで、小事に関わっていれば自然と見識と経験と対策が博くなり、それが積まれていくということも大きくなるのだが、大事に至るようなことはまれなことで、大事に関わるだけだと自然と見識と経験と対策は浅くなり、それが積まれていくことも小さいからである。

 この故に、善く日ごとにすれば王者であり、善く季節ごとにすれば覇者であり、失敗だけを補っていれば危うく、大慌てするようならば亡ぶこととなる。だから、王者は日を大事にして、覇者は季節を大事にして、なんとか存立している国は危ないことがあってからこれに対策をして、亡国は亡んで初めて亡ぶことを知って死に至ってから初めて死ぬことを知るのである。

 亡国の禍と失敗は後悔することすらできない。覇者の善は現れるのであるが季節を見て記録することができる。王者の功名は日ごとに増えているがそれを全て知ることはできない。

 宝物や財貨は大なるものほど尊重されるが、政治と教育の功名はこれと反対である。しっかりと小さいことを積む者こそが速やかに成功する。詩経 大雅・蒸民篇に「ああやや軽きか この徳の 毛にも及ばぬ この軽さ されどもかれども 民のうち この徳挙げる 者は少なし」とあるのはこのことを言ったのである。

八章

 そもそも姦人が出る原因というのは、上が義を貴ばないで義を敬しないことによるのだ。

 義というものは、人が悪と姦(ずるいこと)をなすのを限定して禁止するためのものである。そうであるのに、今、上が義を貴ばないで義を敬することもしないのならば、下の人百姓も皆、義を棄てる心を抱いて姦に走る心を起こす。これが姦人が出る原因と言うものである。

 さらに、上の者とは下の者の師なのである。下が上に和するということは、例えるのならば、やまびこが声に応じて、影がその主の形に似るようなものである。この故に、人の上に立つ者は慎まなければならないのだ。

 義というものは、内は人を節(ちょうどよい状態に)することをして外は万物を節する者なのであり、上は主を安んじて下は民衆を整える者である。内外上下を節するのが義の情というものである。

 そうであるならば、凡そ天下を治めるための要は、義を本にして信をこれに次ぐものとすることにある。昔、禹王と湯王は義に本づいて信を務めて、それから初めて認められた。これこそが人に君主たる者の大本である。

九章

 お堂の上が掃除されないなら、外の草が刈られることはない。
 白刃が胸の前に置かれれば、目は流れる矢を見ることがない。
 戟が首に突きつけられれば、十本の指を絶たれることも辞退しない。
 
 これを務めとしないわけではない、しかしものごとには、疾と養、緩と急で互いに先んずるものがあるのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■七章については、ほとんど同じ内容で別の例えのことを書いたことがある。http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20120211/1328950788

■ここは、一貫したものとして捉えていいと思う。つまり、小を為すことの重要性を述べ、次に小を為すことは義を為すことであると述べ、最後に、人は切迫しなければなにもしないことを嘆じて、さらにそれを戒めて小を為すことを勧めていのである。▼だから九章はこう読むべきであろう。「外に草が生い茂っていることを憂える前に、お堂の上の掃除をしろ。白刃が胸の前にあるような切迫した状況では、流れ矢にすぐに当たってしまうぞ。首に戟が突きつけられているから、指を絶たれてしまうのだ。そうなる前にやるべきことが重要なのであり、そうなってからんとかしようとしても他の問題が起きたことにすら気が付けないし、そうなる前になんとかしないと取り返しのつかないことになる」