史記を読んでいて2

史記を読んでいていろいろと思った。

まず、最も特筆すべきとは、周の文王や武王や周公がいかに偉大であったか、ということである。

今はまだ春秋の五覇の所の途中なのだけど、誰も周と同じこと、つまり中華統一を為し得ることができない。これに対して、周は事実として一度中華統一を果たしているのである。その事実があるから、春秋時代周王朝は、大義名分で使われたのである。

また、史記の記述を読んでいても、どの諸侯も権謀術数、淫乱不貞の域を出ることができていない。荀子がここに王者の条件を求めたことはとてもうなずける話である。

これは面白い話だと思ったのは、

戎という異民族から、秦に使わされた由余という人が、

当時の秦の王であった秦の穆公(ボクコウ)に、「戎の国には、礼がないはずであるのに、どうして治まっているのか」と尋ねられてこのように答えたそうだ。

「中国に礼があることが中国の乱れる理由なのです。

黄帝が礼と法を作って、自分が率先してそれに従い、自分が率先してそれを守っていたうちは良かったのですが、

後代になってくると、王は、礼と法ばかりを頼みとして、これの威を借りて下々の人を責めるようになりました。

このように下々の者が虐げられると、今度は仁義を盾にして、お上を責めようとするのです。

こうして、上下は怨みあうこととなり、簒奪と争乱が行われるようになります。王家が亡びてしまう理由はだいたいこれが根本の理由です。

これに対して、礼や法がしっかりと整っていない戎では、王が徳を自ら体現して、これを見た下の者も、忠信によって王に仕えます。これこそが、聖人の治と言えるでしょう。」

だが、話はこれで終わりでない、まっとうなことをさらっと答える由余を恐れた秦は、戎の王に歌舞団(現在で言うとAKBみたいなもんと思う)を送り、戎の王を骨抜きにしてしまった。さらに、由余を秦に引きとどめて、戎王の猜疑心をあおったのである。こうして、結局のところ、戎王は、由余の話を聞かなくなり、さらには、さらに歌舞団にのめり込んで、由余も秦に逃げることとなった。最後には戎は秦に滅ぼされることとなる。

この話はいろいろ示唆する所が多いと思う。

「法多ければすなわち国亡びること近し」(少し記憶曖昧)とは、春秋左氏伝にある言葉である。
「法は独り立つことできず、類は独り行わるることあらず、その人を得ればすなわち存してその人を失えばすなわち亡ぶ」とは荀子の言葉である。

また、それまでは徳を守っていた戎王がAKBにのめり込んでしまったことにも、ひとつの教訓があると思う。私が思うに、それは礼がなかったからそうなってしまったと思うのだ。つまり、ほどよく節するための標識・基準である礼がなかったために、免疫が無かったということである。

もう一つは、ギリシアに伝わっていたこの教訓を知らなかったのだろう。「善き人には善きことを教えられん。悪しき人と交わらば今ある知恵も亡ぶべし」