完結74.学問のすすめ 現代語訳 十七編 第十段落

第十段落

第三 従事している道が違うからと言って協力しないということではいけない。

 論語には、道同じからざれば相ともに謀らずとある。世の人はこの教えを誤解して、学者は学者、医者は医者、少しでもその従事している職業が違っていると近付くこともなく、同塾同窓で懇意であっても塾を巣立ってしまった後は、一人が町人となり、一人が役人となれば、千里隔絶して、親のかたきのように敵対する者さえいる。なんと甚だしく分別のないことか。

 人に交わろうとするには、ただ旧友をわすれないということだけでなくて、さらに併せて新しい友を求めなければならない。人類はお互いに接しないとその意を尽くすことはできなくて、その意を尽すことができないならばその人物を知ることなどできるはずがない。

 試しに考えてみよ。世間の士君子で、一端の偶然で人に会って生涯の親友となる者はいるだろうか。仮に十人に会って一人の偶然に当たるのなら、二十人に会って二人の偶然を得ることができる。人を知ったり人から知られたりする原因は多くこの辺りにあるものである。

 人望栄名の話はしばらくおいておいて、今日の世間に知己朋友が多いことは、さしあたっての便利にもなるのではないか。以前に宮の渡しで同船した人を、今日銀座の往来に見かけて双方が図らずとも便利を得ることもある。今年出入りしている八百屋が来年奥州街道の旅館で腹痛の介抱をしてくれることもあるだろう。

 人類が多いと言っても、鬼でもなくて蛇でもなくて、ことさらに自分を害しようとする悪敵というものは少ないものである。恐れはばかることなく、心事を丸出しにしてさっさと応接しなければならない。だから、交わりを広くすることの要はこの心事を成るだけ多くして、多芸多能、一つの事に偏ることもなく、さまざまの方向で人に接することにある。

 学問によって接したり、商売で交わったり、または書画の友もあったり、囲碁や将棋の相手もあったり、放蕩遊びの悪事であること以上のことであるならば、友を得るための手段でないものはない。

 それとも、全く芸能がないのならば、共に会食するのもよかろう、茶を飲むのもよかろう、筋骨が丈夫な者なら、腕相撲、枕引き、足相撲など、一席の余興としての交際も一助となるだろう。

 腕相撲と学問とでは、道が違うから相共に謀るということは難しいようであるけれども、世界の土地は広く、人間の交際が繁多であるからには、三、五匹の鮒が井の中で月日を過ごすこととは少し趣きが違うのである。人にして人を毛嫌いしてはならない。

(明治九年十一月出版)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■これでやっと、学問のすすめの現代語訳が終わった。ここまで続けてこれたのも、読んで下さる方がいらっしゃると思ったればこそでした。ありがとうございます。この学問のすすめの現代語訳を通じて、人間交際の広がることのきっかけになれば私としてもうれしいことですし、福沢の理論によれば、読んで下さった方にも利益があるということになります。メールやコメントなど、遠慮なくしていただければ幸いに思います。平成二十四年 十二月 二十四日

■本当は、もう一度読み直して、推敲と要約までしようと思っていたが、それはしばらく時を置いてからすることにしようと思う。