194.荀子 現代語訳 大略第二十七 五十三〜五十七

五十三
 雨は小さいいけれども、漢水はその雨のために深くなる。小さなことを尽くす者が大きくなり、微かなことを積む者が著れ、徳の至った者はその恩沢もあまねく、行の尽くされた者はその言論も遠くまで届く。小人は誠がなくて内に積み重ねるということなく、何でもかんでも外に向かってばかりなんとかしようとする。

五十四
 言論を言うのに師について称することがないことを畔(かたわれ)と言う。誰かにものを教えているのに師について称することがないことを倍(はなれもの)と言う。倍畔の人については、明君はこういった人を政治の場には入れないし、士大夫はこういった人と道ですれ違っても言葉を交わすことがない。

五十五
 行為に足らないことがある者は口が達者となり、裏表のない信という徳のない者は言い訳をする。だから、春秋では、お互いに口約束だけにしておくことを善いこととして、詩経では、しばしば盟約を交わすことを悪いこととする。これらの心は一つである。善く詩経を修めている者は口達者になることなく、善く易経を修めている者は占いをすることがなく、善く礼経を修めている者は見た目だけでものごとを判断しないのは、これらもその心は一つなのである。

五十六
 曾子が言った。「孝子とは、言葉は聞くに値することを口にし、行いは見るに値することをする。聞くに値する言葉を口にすることは、遠くの者を喜ばせるためのものである。見るに値する行いをすることは、近くの者を喜ばせるためのものである。近くの者が喜べば親しみ、遠くの者が喜べばなつくことになる。近くの者を親しませて、遠くの者をなつかせるのが孝子の道である。」
 曾子が斉の国を去る時、晏子が国境まで付いて行って言った。「私はこのように聞いたことがあります。『君子は人に贈り物をするのに言葉を用い、庶民は人に贈り物をするのに財物を用いる』と、私は貧乏で財物はありませんから、君子の名を借りて、あなたに贈り物をするのに言葉を用います。車の車輪は、元は太山の木であるけれど、これをため木にはめて数ヶ月すると、車輪がばらばらになったとしても、もう元の真っ直ぐな木には戻りません。君子のためのため木は慎まなければなりません。これを慎むことです。高級な香料であっても酒に浸すと、それきりで捨てられてしまいます。正しい君主が良い香料に浸されるのならば、讒言を受け付けるということがあるでしょうか。君子の浸す所は必ず慎むようにしなければなりません。」

五十七
 人が文学において気をつけるべきことは、宝玉を切り磨くことと同じである。詩経の衛風には「切るがごとく、磋くがごとく、琢するがごとく、磨するがごとし」とあるけれど、これは学問のことを言ったものである。和氏の璧という宝玉は村里に捨てられていたがらくたであったけれども、職人がこれを磨いて天下の宝となった。子貢と子路とはもともと単なる村人であったけれども、文学を己の身につけて、礼義を服のように着こなして、天下の列士となった。学問することを厭わず、士を好んで飽きないのならば、これが天府というものだ。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■五十七について言うと、これはほぼ同じ記述が論語の学而第一にもある。日本の切磋琢磨という四字熟語の語源である。日本では切磋琢磨というと、「お互いに」というイメージで使われる。しかし、語源では職人の仕事が例えになっていることでも分かるように、本当は、それは限りなく孤独な作業なのである。もしもお互いに切磋琢磨することがあるのなら、それは「まだ磨き足りないぞ」というきっかけのものとしてであろう。