34.荀子 現代語訳 非相第五 一章-後

 徐の国の偃王は目が馬のようにつぶらであった。孔子は鬼がわらのような顔であった。周公は折れた枯れ木のようであった。舜の賢臣であったフ陶は顔色が引き裂いた瓜のようであった。周の文王の賢臣であったコウヨクは顔中毛だらけで皮膚が見えなかった。殷の高宗の賢臣であったフ説は魚のひれが直立しているかのようであった。殷の湯王の賢臣であった伊尹は顔にひげも眉もなかった。禹王は飛び跳ね、湯王は半身不随で、堯と舜は目が三つあった。

 学問に従う者は、志や心持のことを論じて文学に親しみ近付こうとするのか、それとも、人を姿形で判断することばかりを論じてお互いに欺き合って遊ぶべきであろうか。(●従者将に志意を論じ文学に比類せんとするか、直だ将に長短を差けて美悪を辨ちて相い欺き傲ばんとするか)

 むかし、暴君として名高い桀王と紂王は、体躯も大きくて姿が立派で天下の英傑であった。腕力にも優れていて一人で百人を相手にできるほどであった。しかし、結局は誅殺されて死ぬこととなり国も滅んで、後の世では悪と言えば彼らの事ばかり挙げられる。これは姿形が原因の患害ではない。すべては見聞が少なくて下劣な議論ばかりしていたことによるのだ。

 今、世俗の乱民、村の軽薄児は、美麗で艶めかしく、奇抜な服装をして女のように自分を飾り、物腰や態度も女のようでないことはない。だから、婦人はこの人と結婚したいと思い、娘達はこの人を彼氏にしたいと思い、親と家を捨ててまでこの人に付いて行こうという人が並び起こるような始末である。

 けれども、賢い人はもとより普通の人でもこういった人を自分の臣下とすることを恥とするし、ほとんどの父親もこういった人が自分の子であることを恥として、普通の兄貴でも自分の弟がそのようであれば恥だと思い、ほとんどの人がこのような人と友人になることを恥とする。

 それが、ちょっとしたことがあって、この人が刑罰を受けることになろうものなら、天を仰いで泣き叫び、今の自分の状況を苦しみ嘆いて、このようなことになった原因について後悔しないということはない。これは姿形による患害ではない。ただ、見聞が少なく下劣な議論ばかりしていたことによるのだ。そうであるなら、学問に従う者はどういったことをよしとすべきだろうか。 (●是れ容貌の患に非ざるなり。見聞の衆からず論議の卑しきに由るのみ。然らば則ち従者は将に孰れをか可とせんとするや)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■最初の部分は、ほとんどテキストの現代語訳を写した。以下の部分にあるように、ここでは、容姿について考えている暇があるなら、自分の見聞を多くして議論の質を高めるべきことを述べている。ある程度見た目も重要であろうが、やはり一番大事なのは中身だということだろう。ちなみに、学問というのは、学業ばかりの事では無くて、徳行修身といった人間としての弁えのことである。