48.学問のすすめ 現代語訳 十一編 第五〜七段落

第五段落

 これまで述べたように、上下貴賤の名分を正して、ただその名のみを主張して専制の権力を行おうとすることによって、その毒が噴き出すところのものがあり、これこそ人間に流行する欺詐術策というものである。そうして、この病にかかってしまった者を偽君子と名付ける。

 例えば、封建社会の世の中では大名の家来は皆が皆表向きは忠臣のつもりであって、その形を見てみると君子上下の名分を正し、ちょっとした挨拶をするのにも敷居を一歩またいだかどうかのような細かいことに相当気を配って、亡君のために質素な生活を守り、若殿が誕生すると裃を着て、年頭の祝儀、菩提所の参詣など、欠席する者は一人もいない。

 そうして口癖のように、貧乏なのは士の常、尽忠報国、君主からもらった俸禄で生きているからには君主のために死ぬ、などとたいそうに言い触らし、さあと言えば今にも討ち死にする勢いで、ほとんどの人はこういったことに欺かれてしまうようである。けれども、ひそかに別の角度から彼を見てみるとこれは例の偽君子である。

 大名の家来でよい働きをしているとその家に銭がたまるのはどうしてか。決まった給料と決まった経費しかもらえないのだから、本来なら一銭も余財が入るはずはないのである。そうであるのに、出入りを差し引きして余りがあるのなら甚だ怪しむべきことである。

 いわゆる役徳というものか、賄賂というものか、いずれにしても旦那の物をせしめていることには間違いがなく、その最も著しいものを挙げて言うと、普請奉行(建設関係のトップ)が大工に割前(渡した金のいくらかを自分に渡すこと)を促して、会計の役人が出入りしている町人から手数料を取っているようなことは、三百諸候の家でほとんど常識のようなことになっている。

 旦那のためには御馬前で討ち死にさえすると言っている忠臣義士が、旦那の買い物で頭ハネをして上前を取るとはあまりにも不都合なことではないか。金箔付きの偽君子と言うべきものである。

 あるいは稀に正直な役人がいて、賄賂の沙汰が聞こえないとなると、前代未聞の名臣として一藩中の評判となるのだけど、この人はただ単に盗みをしていないだけである。人に盗みの心がないからと言って、それほどほめるべきことでもなく、ただ偽君子ばかりが居るところに、十人並みの普通の人が混じるから、格別に目立つだけのことである。

 しかしながら、この偽君子が多いことの原因を突き詰めてみると、古人の妄想によって世の人民が皆結構な人で簡単に制御することができるものと思いこむことに始まり、その弊害が遂に専制抑圧となって、このような偽君子たちが出てくることとなって、そうして、最終的に飼い犬に手を噛まれているようなことなのである。

 返す返す何度も言うが、世の中で頼れないものは名分であり、毒を流すもとの大きなものは専制抑圧であり、これは実に恐るべきことある。

第六段落

 そのように悪い例ばかり挙げていると際限もないだろうが、全てことごとくそうではなく、わが日本は義の国であって、古来から義士が身を棄てて君のために尽くした例は甚だ多いと言う説もある。

 これに答えると、誠にそうである、古来に義士がなかったということはない、ただその数があまりにも少なくて計算が合わないだけのことである。例えば、元禄のころなどは義気も花盛りと言うべき時であって、この時に赤穂七万石の内に義士が四十七人いた。

 七万石の領分ならおおよそ七万の人口があっただろう。七万のうちで四十七人が義士であるならば、七百万のうちでは四千七百である。時代も変わって星も移り、人情は次第に薄くなって、義気も落下の時節となったことは、世の中でもよく言われていることで間違いない。だから、元禄の時よりも人の義気が三割減ったとしてすると七割になったということになるから、現在では七百万のうちに三千二百九十の割合で義士がいるということになる。そして今の日本人口を三千万人として義士の数を計算してみると、義士は現在一万四千百人いることになる。この人数は日本国を保護することに足りるだろうか。三歳の子供でも勘定できることである。

第七段落

 これらの議論によると、名分も丸つぶれのようであるけれども、念のためにここに一言付け加えておこう。名分とは虚飾の名分のことを言っているのである。虚名であるならば、上下貴賤全てにおいて無用のものではあるのだけど、この虚飾の名分と実際の職分とを入れ替えて、職分がしっかりと果たされるならばこの名分と言うものも何の差支えがあるものでもない。

 すなわち、政府というものは一国の中心であって人民を支配するという職分がある。人民は一国の金主(株主・所有者・出資者)であって国の用をまかなう職分がある。文官の職分は法律を議論して決めることにある。武官の職分は命令に従って戦場に赴き戦うということにある。この他、学者にも町人にも各々決められた職分というものがあるのである。

 そうであるのに、半解半知のとびあがり者が、名分は無用だと聞いてさっさと自分の職分を忘れてしまって、人民の地位に居て政府の法を破ったり、政府の命令を借りて人民の産業に手を出したり、兵隊が政治に口を出して勝手に戦争をして、文官が腕の力に負けて武官の指図に任せるというようなことがあったのならば、これこそが国の大乱というものである。自主自由をなまかじりして、無政無法の騒動となってしまう。名分と職分とは文字こそ似ているものの、その意味は全く別物である。学者はこれを誤って解釈してはならない。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■職分と名分は、対になるような関係かもしれない。性根が、横着で、活動的で、能動的なタイプの人間は、名分(与えられた役割)を守ることを意識して、自分を抑えることを意識した方が良いだろう。これとは逆に、引っ込み思案で、活動的でなく、受動的なタイプの人間は、職分(やるべき役割)に到達することを意識して、自分を拡げることを意識した方が良いだろう。この名分と職分が重なる時、それが中庸となり、礼となり、義となって、そうして始めて職分を果たして自分の正しい立ち位置に立てたということになる。

■ここで賄賂とかの話が出たので、そういったことに心を馳せることがいかに無駄なことか、ひな祭りの歌の替え歌で伝えたいと思う。これを読んでくださっている方に限ってそういったことをしている方はいないとは思うが、まわりにそういった人がいるときに、この歌を思い出して憐れんであげていただきたい。二番の方は名誉ばかりを追っている人にささげる歌。

ひつぎに詰めましょ さつたばを〜♪
遺影に咲くのは かねのはな〜♪
五人ばやしの ほくそ笑み〜♪
今日は楽しい おそうしき〜♪

お墓に書きましょ かちとって〜♪
いっぱい並んだ かたがきを〜♪
感謝されない その偉名(いみょう)〜♪
今日は哀しい じごくのひ〜♪

我ながら皮肉が利きすぎて、あまりにも残酷になってしまった。