47.学問のすすめ 現代語訳 十一編 第三・四段落

第三段落

 アジア諸国では、国君のことを民の父母と言い、人民のことを臣子または赤子と言い、政府の仕事を牧民の職と言って、シナでは地方官のことを何州の牧と名付けたこともあった。この牧とは獣類を養う意味であるからには、一州の人民を牛羊のように取り扱う積りであって、その名目を公然と看板に掲げたようなことである。あまりにも失礼なことではないか。

 このように人民を子供のように牛羊のように取り扱っているとはいっても、前に述べたように、その最初の本意は必ずしも悪念というものではなく、実の親が実の子供を取り扱うようなことであって、第一番に国君を聖明なものと定めて、賢良方正の士を取り挙げてこの国君を助けさせ、一辺の私心もなく半点の我欲もなく、清らかなことは水のようで実直であることは矢のようで、自分の心を押し広めて人に及ぼし、民を扱うのに情愛を主として、飢饉では米を与えて、火事には銭を与えて、扶助救育して衣食住の安楽を得させ、上の徳化は南風の薫ずるかのように、民がそれに従うのは草がなびくかのようで、柔らかであることは綿のようで、その無心であることは木石のようで、上下が一体となって太平をうたおうとする目論見である。

 そうであるけれども、よく事実を考えてみると、政府と人民とはそもそも骨肉の縁ではなく、実に他人の付き合いである。他人と他人との付き合いには情実を用いてはならない、必ず規則や約束というものを作り、互いにこれを守ってほんの少しの差を競い合って、そうすることで双方がともにかえって丸く治まるものなのであって、これが国法の起きた理由である。

 また、先に述べたように、聖明な君と賢良の士と従順な民といったような特別な注文はあるけれども、一体どの学校に入ったらそんな無傷の聖賢が作り出されるのだろうか、どんな教育を施したらかように結構な人民を得ることができるのだろうか、唐人も周王朝以来から、皆このことを心配しているのだけど、今日まで一度も注文通りに世が治まったような試しはなく、とどのつまりは、今の通りに外国人に押し付けられてきたのではないか。

 そうであるのに、この意味を知らないで、効かない薬を再三飲むように、小刀細工の仁政を用いて、神ではない身の聖賢が、その仁政治に無理を調合して力づくで御恩を蒙らそうとし、御恩は変じて迷惑となってしまって、仁政は苛法と化してしまって、なおも太平をうたおうとするのか。うたいたいのなら一人でうたっていてもよい。ただ、それに和する者はいないだろう。その目論見は迂遠なものだ。実に隣の事とは言っても、笑って腹をかかえないではいられない。

第四段落

 こういった風潮は、独り政府のみに限らないで、商家でも学塾でも宮でも寺でも行われていない所がないほどである。今その例を一つ上げてみよう。

 店の中では旦那が一番物知りで、元帳を扱っているものは旦那一人、従って番頭や手代がいて各々がその職分を務めているのだけど、番頭や手代は商売全体の仕組みを知ることが無くて、ただやかましい旦那の指図に任せて、給料も旦那次第、仕事の指図も旦那次第、商売の損得を元帳を見て知ることはできない、朝夕旦那の顔色をうかがって、笑みを浮かべているのなら商売がうまくいっていて、眉の上にしわをよせているのならあてが外れたのだと推測するする位のことで、何も心配することはない。

 ただ一つの心配事は、自分が預かっている帳面にうまく筆を走らせて、自分だけの秘密の仕事をどうやって行おうかという一事のみである。鷲にも等しい旦那の眼力も、このことまでには及ばずに、律儀一編の忠助と思っていたところ、駆け落ちか事故死の後にその帳簿を詳しく調べてみれば、心に洞窟のような大穴を開けて、始めて人物の頼み難いことを知って大きなため息をつくのである。

 けれどもこれは人物が頼み難いことによって起こった問題ではなく、専制の頼み難いことによって起きた問題である。旦那と忠助とは赤の他人の大人ではなかったのか。その忠助に商売の歩合も約束しないで、子供のようにこれを扱おうとしたことは、まさに旦那の不了見というものである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■この忠助の話を見ると、特に商売とか会社の経営において、人を信用することの馬鹿らしさがわかっていただけると思う。会社というものは、遊びに行くところでもなく、仲間と楽しい時間を過ごすところでもなく、同志が集まって目標を達成するところでもなく、ただ個人が金(給料)という個人の利益を求めて集まる場所なのである。この大前提を勘違いして無用に仕事に熱くなれば、当然社内で浮いてくるのであるし、この大前提を勘違いして過剰に人を信用するならば裏切られて騙される。さみしいようだが、それが会社という利益追求法人の現実なのである。だから、会社の経営者は、必ず信賞必罰を給料の多寡によって行わなければならない。こういったことは韓非子に詳しいので、特に経営者の方は韓非子を読んでいただきたい。▼いや、それではさみしい、という方もおられるだろう。そういった方は、まず「忠恕」、つまり思いやりについて学んでいただきたい。恩を感じて、それを返さない人間は少ない。そして、心で施した恩は、心でもって返される。だから、会社で重要なことは、第一がこの金銭的利害関係、金銭的契約関係であり、付加価値としてこの恩の施し返されがあるわけである。金銭利害関係が整っていない会社でどれだけこの付加価値を求めようが単なる徒労というものであり、全ては見せかけのものである。みなの心は、表面上だけ取り繕われ、特に仕事と言う面において特にばらばらになるだろう。▼あと、部下がい言うことを聞いてくれないというとき、そのときは、思いやりについて良く考え、次に、「潔矩の道」(大学より)についてよく考えていただきたい。山本五十六の言葉にこういったものがある「やって見せ やらせてみせて 任せてみて ほめてやらねば 人は動かじ」、あとダライラマの言葉にこういったものがある「Teach by example  Before teachng oteres,before change others,we ourselves must change.We must be honest,sincere,kind-hearted」(例えをもって示せ 人に教える前に、人を変える前に、私たち自身が変わらねばならない。私たちは、正直で、誠実で、親切な心でいなければならない。)さらに、聖書からも「あなたは、人の目の中にあるほこりを取り除いてあげようとする前に、自分の目の中にある梁を取り除かなくてはならない」▼ここまで来たので最後まで詳しく述べるが、人と言うものは、「隠れてすることができない」、つまり、お金大好きで他人のものにまで手を出そうと考えている人間は、どれだけ表でそれを隠したとしても、必ず皆気が付いている。だから、その人が「盗みはいけない」と言ったところで誰も言うことを聞かない。また、怠け者で皆の目を盗んでは、仕事をさぼっている人間は、やはりそれを隠すことはできない。だから、そうった人間が何度「お前、さぼっちゃあかんやろ」と言ったところで誰も言うことを聞かない。また、破廉恥でいつも隠れて規則を破っている人間が「規則を守れ」と言ったところで、これももちろん誰も言うことを聞かない。「お前が一番規則を守っていないやないか」当たり前のことなのである。自分にできないことを人に強要することなどできるはずがない。そして、あなたに問うてみる。「あなたは、さぼりたいという気持ちが一片もありませんか?あなたは、金を貪りたいという気持ちが一片もありませんか?あなたは、どんな細かい規則でも絶対に守りますか?」もしひとつでも、「絶対にできる」と言う方がいるのならぜひ申し出ていただきたい。私はあなたを最高の上司として崇める。そして、こういったことを「潔矩の道」と言う。だが、これを絶対にできる人間などいない、しかし重要なことは、「やろうという気持ちがあるのか、それともないのか」この一点なのである。