29.学問のすすめ 現代語訳 六編 第八・九段落

第八段落

 国法が貴いことを知らない者は、ただ政府の役人を恐れ、役人の前では態度を良くして、表向きに犯罪の名がないのなら裏では罪を犯していてもこれを恥だと思わないばかりか、巧みに法を破って罪を逃れる人がいるとかえってこれをその人の働きだとして良い評判を得ることがある。

 今、世間日常で話されていることに、これらのお上の御大法は、政府の表向きのことではあるけど、この事を行うのにこのように内々に取り計らえば、表向きの御大法には差支えもなく、これは表向きには内緒のことだと笑って談話することをとがめる者もなく、甚だしい時は小役人と相談した上で、この内緒ごとを取り計らい、双方ともに便利を得てあたかも罪がないかのようにしている。

 実はかの御大法は、あまりにも煩わしすぎて事実としては困難なことが多いことによって、この内緒ごとが行われているとはいえ、一国の政治をもってこれを論ずれば、最も恐るべき悪弊である。このように国法を軽蔑する風潮に慣れて、人民一般に不誠実の気を生じてしまい、本来なら守って便利となるような法をも守らないで、遂には罪を被ることさえある。

 例えば、現在、道端で小便をすることは政府の禁じていることである。そうであるけど人民は皆この禁令の貴いことを知らないでただ警官を恐れている。あるいは、日暮れなどに警官のいないことをうかがって法を破ろうとし、図らずも見つかってしまったときはその罪を認めるとは言っても、本人の心中には貴い国法を破ったが故に罰せられたとは思わずに、ただ恐ろしい警官に会ってしまったことをその日の不幸だと思うだけである。これは実に嘆かわしいことである。

 だから、政府で法を作るには努めて簡便であることを良しとする。既にこれを定めて法とするならば、必ず厳しくその法が施行されるようにしなければならない。人民は政府の定めた法を見て不便と思うことがあるのならば、遠慮なくこれを論じて訴えなけられなならない。既にその法を認めてその法のもとに居るならば、個人でその法の是非を決めることなく謹んでこれを守らないとならない。

第九段落

 近くは先月、我が慶応義塾にも一事件があった。華族の太田資美君が一昨年から私財を使ってアメリカ人を雇い、義塾の教員にしていたのだけど、このたび交代期限が来て、他のアメリカ人を雇おうとして当人との内談が既に整っていた状態で、太田氏が東京府に書面を出し、このアメリカ人を義塾に入れて文学科学の教師にしようとの趣旨を出願したところ、文部省の規則に、個人の金で私塾の教師を雇い個人的に人を教育するような場合でも、その教師となる者は日本で学科卒業の免許を持っていないと雇い入れることは許さないということだった。ところで、このたび雇い入れようとするアメリカ人は、かの免状を所持していなかったものであるから、もし語学の教師ということならともかくとして、文学科学の教師としてはその出願を受けることは難しいと、東京府から太田氏に連絡がきた。

 そこで、福沢諭吉の方から同府に書を出し、この教師は、免許がないもののその学力は当塾の生徒を教えるには十分であるから、太田氏の出願の通りにしていただきたく、語学の教師として出願すればうまくいくかもしれないけれど、学生たちは文学科学を学ぶつもりであるのだから、語学と偽り役所を欺くことは敢えてすることができないという旨を伝えたのであるけど、文部省の規則は変えることはできず、諭吉の願書もまた返却されてしまった。

 このために、既に話の決まっていた教師を雇い入れることができず、去年の十二月下旬に本人は去ってアメリカに帰り、太田君の素志も水の泡となってしまい、数百の生徒も望みを失ってしまって、実に一私塾の不幸にとどまらず、天下の文学のためにも大きな妨げとなって、馬鹿らしく苦々しいことではあったのだけど、国法の貴重であることは、これはいかんともすることはできないのであって、いずれ近日中に重ねて出願するつもりである。

 今回の一件については、太田氏をはじめとして社中集会した会議で、かの文部省にて定めた私塾教師の規則もいわゆる御大法であるから、ただ文学科学の文字を消して語学の二字に改めればこの出願もうまくいき、生徒のためには大きな利益があるとして再三商議したのだけど、結局のところ、このたびの教師を得ないと社中生徒の学業は退歩はするけれど、役所を欺くことは士君子の恥じる所であるからには、謹んで法を守り国民たる分限を誤らないことの方が上策であるとして、ついにこういった始末となってしまった。これは一私塾でのできことで小さいことのようであるけれども、議論の内容は世間一般のことにも通ずることがあるのでこれを巻末に記すこととした。

(明治七年二月出版)


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■ここで、福沢が述べていることは、現代でも多くあるだろう。特に、官公庁関係の仕事をしている人は身に覚えがあると思う。かく言う私も、以前は土木工事の監督として、国土交通省や県庁に対して、そういった書類などを作っていたのだけど、まさに、ここに福沢が述べているようなことに多く遭遇し、さらにそのことによって夜中まで仕事をすることに疑問とくだらなさと理不尽さを感じ、こんなことに携わるのは嫌だとして、その会社を辞めることにした。あと、道路交通法関係でも、みなはこれを立ち小便と同じことと思っていると思う。慎まなければならない。▼私はいつもこのように思うようにしている「この細かい規則や一見すると意味のないような法律も、自分より賢い人か、自分よりそのことに通達した人が決めているものであって、自分のことを少しでも賢いと思うのなら、その専門家の意見に従うことの方が賢い。」事実、何事もこんなようなことかもしれない。誰でも、自分の意見を正しいと思いたいし、自分の感情に流れる方が簡単である。しかし、少し思いを巡らしてみれば、自分と言う者は知っていることの方が少ない人間なのであって、自分より知っている人の意見を聞くことの方が明らかに賢いことなのである。よく肝に銘じておかなければならない。