30.学問のすすめ 現代語訳 七編 第一・二段落

七編

国民の職分を論ず

 第六編に国法の貴いことを論じて、国民たるものは一人で二人分の役目を勤めるものだと言った。今またこの役目職分のことについて、これからさらに詳しく述べて六編の補てんとする。

第一段落

 おおよそ国民たるものは、一人の身で二つの勤めがある。その一つ目は、政府の下に立つ一人の民として論ぜられるもので、すなわち客のつもりでいることである。その二つ目は、国中の人民が申し合わせて一国と言われる会社を作り、その会社の法を立ててこれを施し行うことであり、すなわち主人のつもりでいることである。

 例えば、ここに百人の町人が居てなんとかとか言う商社を作り、社中相談の上で商社の法を立て施し行うところを見るのなら、その百人の人はその商社の主人である。既にこの法を定めて、社中の人が皆これに従って違反しないのを見るならば、その百人はその商社の客である。だから、一国というものはなお商社のようなもので、人民はなお社中の人のようなもので、一人で主客の二役を勤める者である。

第二段落

 第一 客の身分で論ずるならば、一国の人民は、国法を重んじ人間は全て同等であることを忘れてはならない。

 他人が来て自分の権利を害されないことを願うならば、自分もまた他人の権利を妨げてはならない。自分が楽しいことは人も楽しいのであるからには、他人の楽しみを奪って自分の楽しみを増そうとしてはならない、他人の物を盗んで自分の富としてはならない、人を殺してはならない、人のでっちあげの悪口を言ってもならない、とにかく正しく国法を守って自分と他人とが同等の大義に従わなければならない。

 また国によって定められた法は、それが稚拙であったり不便であったとしても、みだりにこれを破ることは間違ったことである。戦争をするにしても外国と条約を結ぶとしても政府にその権利と権力があるのであって、これらの権はそもそも約束して人民から政府に与えられたものであるから、政府の業務に関係ない者は決してそのことについて評議してはならない。

 人民がもしこのことを忘れて、政府の処置は自分の考えと違うと言っては、ほしいままに議論を起こし、あるいは条約を破ろうとしたり、戦争しようとしたり、甚だしいものに至っては単騎駆けをして白刃を携えて飛び出すような行動があれば、国の政治は一日も保つことができない。

 これを例えると、先の百人の商社で兼ねて申し合わせて、社中の人物から十人を選んでこれを支配人と定めておいて、残りの九十人が支配人のやり方は気に入らないとして、各々勝手に商談を行い、支配人が酒を売ろうとしているのに、残りの九十人がぼたもちを仕入れようとして、その評議はまちまちで、甚だしい者は一人で勝手にぼたもちの取引を始めてしまい、商社の法に背いて他人と争論になろうものなら、会社の商売は一日も行うことができない。ついに、その商社が倒産することになれば、その損失は商社に居た百人にみな一様に引き受けられる。愚かしいことも甚だしいことである。

 だから、国法は不正不便であるとは言っても、それが不正不便であることを理由にこれを破ってはならないのである。もし事実として不正不便であることがあるのならば、一国の支配人たる政府にしっかりと説明して、静かにその法を改めるようにすべきである。政府がもし自分の説に従おうとしないのならば、その説明を力を尽くしてした上で、それで駄目なら堪忍して時節の到来を待たなければならない。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536



感想及び考察

■第二段落四番目のあたりの「権利と権力」は原文では単に「権」となっている、現代では分かりにくいかなと思って、そのように訳した。以前にもこのようなところは何度かあった。権利と権力は、英語だと“right”と“power”で別のものだけど、日本語だと“権”でつながって同じように解釈されるというのは有名な話であると思う。権利は、持っているもので、権力は、権利の実行力のことである。だから、権利のある所に権力があるわけだけど、現在、この権力は、人民に代行して政府が施行していることになる。▼ちなみに孫子だと、「勢とは利に因りて権を制するなり」(計編)とある。権とは支配や実行の存するところのことである。

■あと「趣意」という言葉もそのまま使わないように避けて訳出している。私は、“要点”“こと”などと訳している。

■この部分は、福沢が先に述べた「力の平均」(17.四編第二段落)の理論と矛盾するようにも思われる。これは、違った性質のこと、例えば、臭いと色は別物であるという理論かもしれない。例えば、カレーというひとつの料理には、色と臭いがある。色は目から入ってくる情報で、臭いは鼻から入ってくる情報である。だから、同じカレーでも同時に最低でも二つの情報を発信しているのである。そこで、民衆が発すべき力も、力の平均で述べられた民衆の力と、ここで述べられた僭越の力は、同じ民衆の力だけど、その方向性や性質は違うということである。理に対して理で報いることは道理にかなっているけど、理に対して実行力で報いるのは道理にもとっている。例えば、最近、中国や韓国に対する外交が弱腰ではないか、という評議が多い。これに対して、勝手に評議を立てたり、大使館を襲撃したりすることを福沢は止めているのである。しかし、勝手に評議を立てたりしなければ、政府が動かないところもある。これはひとつに、前、私が考察(21.四編第八段落)で述べたように、官僚が、政府を隠れ蓑にしている(偶然にも歴史的にそうなっている)ことも影響しているのかもしれない。このことによって、理で理に報いる場所がうまく用意されていないということかもしれない。