25.学問のすすめ 現代語訳 六編 第一・二段落

六編

第一段落

国法の貴きを論ず

 政府は国民の代表で、国民の思うところに従って事をなすものである。その職分(務め)は罪のある者を取り押さえて、罪のない者を保護することに他ならない。これがすなわち国民の思っていることで、これさえしっかりと行われているのならば一国内の便利と言うものである。

 元来、罪のある人は悪人で、罪のない人は善人である。今、悪人が来て善人に害をなすことがあるようなら、善人は自分でこれを防いで、自分の父母や妻子を殺そうとする者がいるようであればこれを捕まえて殺し、財産を盗もうとする者がいるならば捕まえてこれに体罰を加えたとしても、何の差支えもないようである。しかし、一人の力で大勢の悪人を相手取り、これを防ごうとするならば、とてもかなうはずがない。たとえば、それを防ぐにしても費用は多くかかって何の利益もないことであるから、国民の代表として政府を立てて、善人を保護する務めをこれに任せて、その代金として役人の給料はもちろん、その他の政府に必要な費用をすべて国民によってまかなうと約束したものである。

 そうして、また政府は既に国民の総名代としなって事をなすべき権を得たものであるからには、政府のすることは国民のすることであって、国民は必ず政府の法に従わなければならない。これもまた政府と国民との約束である。

 だから、国民が政府に従うのは、政府の作った法に従うのではなくて、自分の作った法に従うのである。国民が法を破るのなら、政府の作った法を破るのでなくて、自分で作った法を破るのである。もそも法を破って刑罰を受けるのなら、政府に罰せられるのではなくて、自分の定めた法によって罰せられるのである。

 このことを形容すると、国民という者は、一人で二人分の役目をしているようなものである。その一つ目の役目は、自分の代わりとして政府を立てて国内の悪人を取り押さえて全員を保護することである。そして二つ目の役目は、固く政府との約束を守ってその法に従って保護を受けることである。

第二段落

 このように、国民は政府と約束して政令の権利と権力を政府に任せたものであるからには、かりそめにもこの約束を違えて法に背いてはならない。人を殺す者を捕まえて死刑にするのは政府の仕事であり、盗賊を縛って牢屋に入れるのも政府の仕事であり、公事や訴訟をさばくことも政府の仕事であり、乱暴や喧嘩を取り押さえることも政府の仕事である。

 これらのことについて、国民は少しも手を出してはならない。もしも勘違いして個人的に罪人を殺し、盗賊を捕まえてこれに体罰を加えるようなことがあるのならば、これは国法を犯して、自分で勝手に他人の罪を裁決する者であって、これを私裁と名付けて、その罪は許してはならない。

 特にこの私裁のことについては、文明諸国の法律は甚だ厳重である。まさに論語にある「威風はあるけど猛々しくはない」と言えるものである。

 我らが日本では政府の威風と権力が盛んなようではあるけれども、人民は政府が貴いことを恐れて、その法の方が貴いことを知らない者がいる。今ここから、私裁がよろしくない理由と国法がどうして貴いのかということを記していく。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■これについて、今は、社会科で教育を受けているのだろうか?「受けているのだろうか?」としたことには、個人でいろいろ感じることもあるだろうけど、まず、私はこのことを知ってはいたが、教えてもらったという記憶が無いからである。現在は、これが「常識」として、しっかり社会に染みついて、そのことによって、皆がこれを「常識」と知り、そして、ごく一部の感情が高ぶり妄念に取りつかれてしまった人以外は、何の気なしに教えもせず習いもせず、まさにこれを「常識」としてこれを受け入れているのだろうか。恐らくそういうことかな。

■最近、福沢の文章の書き方がうつってきた。まさに上の二文目がその型にはまっている。まず、一つの文章が長くて、修飾節が多く、さらさら読めばむしろ読みやすいのだけど、少し立ち止まって読むと意味が分からず、やたらと、「だが」や「なく」の否定形によって文章の節が連結されている。まさに、今の説明文も福沢文法に近いのだけど。これは話し言葉に近い文章と言うべきだろうか、考えて書いたと言うよりは、さらさらと思いついたままに文章が書かれているように思われる。私は、多分論語とかの影響だろうけど、短文構成で、必要最低限の言葉を用いて、質素な文を書くことが多かったように思うので、今、これらが混ざってなんかぎこちないように感じる。