知り過ぎないこと

 この前、大学、中庸(これは今は途中だが)と読んで、「至善」(しいぜん)について、思うところがあった。というのも、至善とは止まることであるからである。以前は、そんな特に「智」と言うことについて、止まる必要などないほどに未熟だったのではあるけれども、最近では、智に止まるということについて、また、そういった状況があるということについて、思いが至るようになった。

 どういうことかと言うと、孟子に良い例えがあった。
「弓というものは、自分の能力を越えて、力いっぱい無理に引くと、暴発して、的に当たらないものである。だから、何事も適度なところ、自分の実力の範囲内におさめておくのがよい」というものだ。

 世の中には、いろいろな人がいて、凄い名弓を持っているのだけど、力が無くてそれを引ききれない人もいれば、逆に、というか、ほとんどの人がこれなのだけど、力はあるのだけど、弓の使い方を知らないのか、その弓を手入れしなければならないことに気が付いていないのか、そもそも、弓を持っていてもそれを使った方がいいとも思わないのか、力を持て余してしまっている人もいる。

 そのように、智というものにも、力と弓相応の加減というのが必要なのであって、それを越えてもならないし、かと言って、力を持て余してもならない。

 あと、パイドンなど、ソクラテス関係の本を読んでいると、知識というものの必要の無さというものを感じる。これは、なんとも表現し難いことなのだけど、既にその持ち合わせているものだけで十分なのであるという感覚である。これはちょっと筆舌に難いことではある。 

 最後になったけれど、私はまだ、その智の止まるところは分からないし、そもそもまだまだ多く知らなければならないことがある。