パイドンを読んでいて2

 今日、パイドンを読んでいたら、シミアス(死見明日:偶然このように変換されたが、パイドンの内容に即している。この音が似ていることも偶然なのか、それとも必然なのか)とケベス(こちらは卦べすと変換された:卦べき、卦すとすればパイドンの内容にこじつけられないこともないが…)が、ソクラテスにさらに質問する場面で、ソクラテスが、論語の「鳥の将に死せんとする、その声や哀し、その人の将に死せんとする、その言や善し」と全く同じと言っても過言ではないことを述べていた。そして、そのあとにすぐ「仏法僧」という言葉があった。

 これを見て、「仏法僧」の方はどう訳すかいろいろ説があって、この訳書ではそう訳されているだけかもしれないが、論語と同じ内容が書かれていることは疑いのないことで、いろいろと想像力を刺激された。

説1、ほぼ同時代とは言え、若干ではあるが、仏法や儒学の方が若い、これらのことがプラトンの耳に届いていたかもしれない。

説2、そもそも、人の感情というものは古今東西で同一であり、同じことが書かれていることは何も不思議なことではない。

説3、古典はいろいろな人の写本によって伝えられているから、その過程で何らかの変化が生じ続けた結果、大まかな内容が東洋哲学に近いパイドンには、そのような加筆が多かった。

などのことが考えられた。

 あと、パイドンでほぉ〜なるほど、と特に思う考え方は、肉体と魂をことごとに分けて、それを基準に全てを考えるやり方だ。だから、このような記述もある。「目や耳を通して得られることは、神的なものや真実のものとは無縁である。だから、哲学者(愛智者)と呼ばれる人は、常に、魂でしか見れないもの、例えば“等しさそのもののような”ものを見なければならない。」この「魂でしか認識できないもの」という考え方が、私にとっては新しい観点であった。

 この辺りの記述を読んでいると、イデア論は、やはり多次元論のように思われる。雑誌ニュートンの時空多次元の解説に、プラトン「国家」でのイデアについての説明が使われていたことがある。ただし、プラトンイデアは、この物理的時空の多次元とは、違った方向の次元に存在しているものと思われる。それはまさしく精神と言われるものの方向にある次元で、仏教で言うと無色界が近いと思われる。