26.学問のすすめ 現代語訳 六編 第三・四段落

第三段落

 たとえば、我が家に強盗がきて家の中の者をおどし金を奪おうとしたとする。このとき、家の主人たる者の職分は、この事の次第を政府に訴えて政府の処置を待っているのが本当であるのだけど、事が火急でありそれを待っている時間もなく、かれこれとする間にその強盗が既にタンスを開けて今にも金を持って行こうとしている。これを止めようとするなら主人の命も危ないことであるから、やむを得ずとも家の中で申し合わせて個人的にこれを防いで、当座の取り計らいということでこの強盗を捕まえておいて、そうして後から政府に訴え出ることになる。

 これを捕えるのに、棒を使ったり、刃物を使ったりして、賊の体を傷つけることもあるかもしれない、または、その足を折ることもあるかもしれない、さらに事が急であるなら鉄砲でこれを殺すこともあるかもしれない。しかし、結局のところ、その主人は、自分の命と家財とを守るために一時的にこのような取り計らいをしただけなのであって、決して賊の無礼をとがめてその罪を罰したわけではない。

 罪人を罰するのは政府のみに認められていることであり、個人的な職分ではない。だから、個人的な力で既にこの強盗を取り押さえて捕まえたのならば、平人の身としてはこれを殺したり暴行を加えたりしてはならないことはもちろんのこと、指一本この賊に触れてはならない、ただ政府に告げて政府の裁判を待つばかりである。

 もしも賊を取り押さえて、怒りに任せてこれを殺したり暴行を加えたりするのならば、その罪は無罪の人を殺して無罪の人に暴行を加えることと同じなのである。たとえば、某国の法律には、金十円を盗んだ者の刑罰はムチ打ち百回、また足で顔面を蹴飛ばしたら同じくその刑罰もムチ打ち百回とある。ということは、盗賊が十円を盗んで逃げだそうとしたとき、この家の主人に取り押さえられて既に縛られた上で、その主人が怒りに任せてこの盗賊の顔面を蹴飛ばしたのならば、この国の法律によれば、盗賊も十円を盗んだ罪でムチ打ち百回、主人もまた平人の身で私勝手に盗賊の罪を裁決して顔面を蹴飛ばしたという罪によって同じくムチ打ち百回を被るのである。

 国法が貴いことはこのようなことである。人々は恐れなければならない。

第四段落

 この理論で考えてみると、かたき討ちというのも宜しくないことであることがわかる。自分の親を殺した者はすなわちその国で一人の人を殺した公の罪人である。この罪人を捕まえて刑罰を行うのは、政府のみに認められた職分なのであって、平人の関わるところではない。そうであるのに、その殺された人の子であると言って、政府に代わって個人的にこの公の罪人を殺していいはずがない。

 これは差し出がましいことと言うのみならず、国民の職分を勘違いして、政府との約束に背く者であると言えよう。

 もしもこういった場合に、政府の処置が公平を欠いていて罪人にひいきがあったならば、その筋の通っていないことを政府に訴えるべきである。何らかの事件があっても決して自分の手を出してはならない。たとえ親のかたきが目の前をうろついていたとしても、自分勝手に私に、これを殺すことは許されない。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

■こういった法律の常識が、皆に定着している理由が分かった。それはテレビだ。さらに言おう。サスペンス劇場や刑事もの、これらのストーリーは大概の場合、「かたき討ちと法律の矛盾」である。つまり、かたき討ちをすることを感情的情念的に認めながら、それが法律では間違ったことで世間では通用しない。ということを題材としたものが多いのである。よくよく考えてみると、これはやはり昔の日本に仇打ちの制度があったことが深く関係しているのだろう。だから、日本人受けがよく、そのために良くテレビの題材となっていると思われる。