34.学問のすすめ 現代語訳 第十段落

第十段落

 このように世を憂えて身を苦しめ命を落とす者を、西洋の言葉で「マルチルドム(martyrdom:殉教者)」と言う。この第三策で失うのはただ一人の身であるのだけど、その効能は、千万人を殺し千万両を費やすような内乱の戦よりも、はるかに優れている。

 古来から日本では、討ち死にする者も多く切腹する者も多い、それらの人は皆忠臣や義士であるとして評判は高いのであるけれども、その身を棄てた理由を尋ねてみると、多くは政権争いの戦に関係しているか、または主人のかたき討ちをすることで華々しく一命を投げ打つものである。その形は確かに美しいのであるけれども、実益が世の中にあるかと言えばそうではない。

 自分の主人のためと言い、自分の主人に申し訳ないとして、ただ一命を投げ捨てればそれで良いと思うのは、不文不明の世の常ではあるけど、今の文明の大義でこれを論ずるならば、これらの人はいまだに命の棄てどころを知らない者と言うべきである。

 元来、文明は、人の智徳を勧めて、人々が自分からその身を支配し、そうして世間が相交わり、相害することもなく害されるようなこともなく、各々が自分の権利を達して一般の安全繁盛を致すことが目的なのである。そうであるなら、かの戦にせよかたき討ちにせよ、この文明の趣意に適い、この戦に勝ってこの敵を倒して、このかたき討ちを成功させて主人の面目を保ったのなら、必ずこの世は文明におもむき、商売も行われて工業も起こり、一般の安全繁盛が至るということであるのならば、討ち死にもかたき討ちももっともなことのようであるのだけど、そもそもこういったことにはそういった目的がない。それに、その忠臣や義士にもその見込みは持っていない。

 ただ仕方なく旦那に申し訳を立てているだけである。旦那への申し訳で命を棄てる者を忠臣や義士というならば、そういった人は今日の世にもけっこういるものである。権助(ごんすけ)が主人の使いに出て、一両の金を落として途方に暮れてしまって、旦那に申し訳が立たないとして思案を定め、並木の枝にふんどしをかけて首をくくるようなことは世に珍しいことではない。

 今、この義僕が自ら死を決する時の心を汲んで、その気持ちを考えてみれば、これは憐れむべきことである。使いに出たまま帰ってこず、既に死んでしまっている。この英雄を忍んで襟を涙で濡らさないわけにはいかない。主人に頼まれて任せられた一両を失って、君臣の分を尽すために一死で報いることは、古今の忠臣義士と比べて少しも恥じるところがない。その誠と忠心は日月とともに輝き、その功名は天地とともに末永くあるべきはずであるのに、世間の人は皆薄情者で、この権助を軽蔑し、石碑を彫ってその功業を称する人も無く、宮殿を建てて祭る人もいないのはどうしてなのか。

 人は皆、権助の死はわずか一両のためであってその事の次第はあまりにも些細であると言うだろう。しかし、事の軽重は、金が多いのか少ないのか、人数が多いのか少ないのかで論じてるのでなくて、世間の文明のために利益があったのか無かったのかによって定めなければならない。

 そうしてみると、かの忠臣義士が一万の敵を殺して討ち死にするのも、この権助が一両の金を失って首をくくるのも、その死によって文明に利益をもたらさなかったことに関して言えば、正しく同様のことであって、どちらを重いとも軽いとも判断できないのである。そうであるからには、義士も権助もともに命の棄てどころを知らない者だと言ってよいものである。そして、こういったことは「マルチルドム」とは言われない。

 私の聞くところによると、人民の権利を主張して正しい理を唱えて政府に迫り、その命を棄てて終わりを良くし、世界中に対して恥じる所の無い者は、佐倉宗五郎があるだけである。ただし、彼についてのことは、世間に伝わる言い伝えのようなことばかりで、その詳しいことに関する正式な歴史の文書があるわけではない。もし、これが分かることがあれば、後日これを記してその功と徳を表して、これでもって世間の人の手本となるようにしようと思う。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20121007/1349584536


感想及び考察

権助には申し訳ないが、訳していて笑ってしまった。

佐倉宗五郎についてのwiki http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%80%89%E6%83%A3%E4%BA%94%E9%83%8E

■私の住んでいる岐阜県関市にも似たような伝承がある。http://www.city.seki.gifu.jp/kouhou/h24/h24-04-01/26.pdf