文明の発展と人口について

文明の発展(誰かが享受できる文明による恩恵)と人類の数(世界人口、または隔絶された部分における部分人口)にはかなりの双方向的相関関係というものがある。

双方向的相関関係とは、例えば、できるコーヒーの量と味の濃さと、豆の量のような関係である。

どういったことかと言うと、豆の量(人口)が一定の場合、作れるコーヒーの量とその味の濃さ(文明)は自ずと限られてくることになる。ということである。

豆が10あったとき、普通のコーヒーが10杯できるとする。

だが、豆の煎り具合を変えてみたり、ダブルトリップをするなどの工夫をすると、10の豆しかなくても、普通のコーヒーは12杯できるかもしれない。または、アメリカンにして薄いコーヒーを作ったとしても、飲める範囲の味の濃さのコーヒーは、20杯しかできないだろう。

こういったように、豆の量とできるコーヒーの量や味の濃さの間には、等式で成り立つような、有限の関係があるのである。しかし、工夫を加えると、豆の量を変えなくても、数割くらいならできるコーヒーの量や質を良くすることができるのである。

さて、では、これを念頭に置いた上で、文明と人口の関係を考えてみよう。

人類で人口の爆発的増加が起きたのは、(細かい因果関係はもっとあるが、あくまで代表のもの)

1.農耕の発明(これが起こるまで人類は狩猟によって生活していた)
2.鉄器の発明(これによって、殺傷能力の高い武器ができて、簡単に戦争できなくなるとともに、農業の効率が飛躍的に高まった)
3.三圃制などによる農業革命(これによって、主にヨーロッパで、伝染病:ペストの発症率が急激に下がり、寒波、干ばつなどの天災による人口の急激な減少が起こらなくなった)
4.現在に至る工業の発明(言うまでもないだろう)

が挙げられると思う。

人類が農耕を発明した時、恐らく人類は、最低でも20人くらいの集団(隔絶された部分における完全部分人口)で生活をしていたと思われる。これは適当な推測であるけど、最低でも20人くらいがまとまらないと農業は行えなかったであろうと思われるからだ。

つまり、狩猟のやり方やコミュニケーションツールが発達して、20人くらいでまとまって行動できるようになったから、農耕生活に移行できるようになったわけである。しかし、農耕生活をするためには、狩猟生活で維持できる人数のまま、農耕という段階に自分たちの文明を発展させなければならない。なぜかというに、狩猟というような不安定な食物調達方法では、100人くらいが同時に移動などをすることが不可能と思われるからである。事実、モンゴルの遊牧民は、現在でも10人前後の家族単位で移動をしているということだったと思う。ここで、この20人というのが豆の量で、そのままの状態だと、狩猟生活という20杯のコーヒーしかできないのである。そこで、狩猟生活での限界に数割の工夫を加えた、24杯の普通の味がするコーヒーが農耕生活のことである。

ここが、コーヒーの例えではうまく説明できない部分であるのだけど、今までどう頑張っても20杯しかできなかったのが、なんとか24杯の普通のコーヒーを飲めるようになると、人というものは、元気とやる気がでてきて、さらに多くのコーヒー豆を集めようとするものである。こういったように、何らかの要因が、数式の条件を急に変えるような不連続的な変化点を作ると、それは、人口増加の契機となるのである。

こういった過程で、変化点に達すると、人口は爆発的に増える。つまり、人は、農耕生活によって、狩猟生活の最大部分人口であった20人を遥かに越える。そうして、10000人の最大部分人口を維持することが可能となるわけである。

そして、この10000人の集団を維持して、初めて、鉄器を作ることができるのである。つまり、鉄器を作るためには、100人の支配階級と、400人の準支配階級と、250人の銅器制作職人と、500人の商人と、1250人の土木建築家具職人と、7500人の農夫、これらの定量が必ず必要なのである。

なぜかというに、この10000人という集団が生活するためには、どの階級がいなくても成り立たないからである。それはどれか一つの職種を無くしてみれば、簡単にわかることと思う。例えば、銅器制作職人が50人しか居なかったとしたら、鉄器を作るための技術は発展しないだろう。銅器制作職人が、250人居るようになったから、技術が発展して鉄器を大量生産することも可能となるのである。

しかし、銅器制作職人が250人居ても、商人が居ないと、銅器が売れないから、そもそも、銅器制作職人が250人に増えることは無かったであろう。また、農夫が居ない場合など、鉄器を作ることが不可能であることは明々白々であると思う。農夫はあくまで、自分が食べる分を確保して、その残りを銅器制作職人に回すということになると思うけど、農夫がこれより少なかったら、250人の銅器制作職人を維持するだけの、食べ物の余りが出てくることはないであろう。このように、社会というのは、絶妙な役割分担の割合によって、文明を維持しているのであり、文明を維持するためには、それに見合った全体人口と、それに見合った役割分担が必要なのである。

こういった理論は、マルクスアダム・スミスによって(社会的)分業または協業という名前によって、確立されている理論である。

ところで、私の出した理論がこれらの既出の理論と違うのは、この分業と協業について歴史的にも考え、そこに「文明度に応じた人口の限界点」と、「人口によって制限される文明の限界点」、さらに、「文明の限界点と人口の限界点が重なった時、飛躍的な人口の増加がまず起こり、それに伴って文明の発展も飛躍的に起こるという特異点」があると設定したことにある。

この社会的分業の理論と、私の出した歴史的人口と文明の理論を組み合わせれば、「ある文明を維持するためには、ある一定の人口とそれに応じた社会的分業が絶対に必要」ということが分かっていただけると思う。

そこで、これを現在に当てはめることが重要だ、と、私は言いたいのである。

つまり、現在の社会において、数万人単位で人が急に消えてしまったら、例えそれらの人がニートという立場の人であったとしても、この文明はたちまちにして維持できなくなるし、発展することもできない。文明を維持して発展させるためには、それを支える細かな、一見無用な人々も絶対に必要なのである。

しかし、現在では確かに、工業化やロボット化によって、今まで、人の手でしかできなかった分業の範囲が人以外に移行しているということ、また、地球自体に住める人間の量が地球の受け入れることのできる限界に近づいているということ、これら2つのことは事実とすることができるだろう。こういった要因によって、現在人類の置かれている状況は、今までと少し違うのかもしれない。

また、こういった理由によって、現在でノアの方舟的なことをすると、それによって逃れた人は、今までと同じような生活は間違いなくできないことも予測される。つまり、終末が訪れた時、核シェルターなどの特別な方法によって一時的に難儀を逃れることができても、今までのような物的に満足した生活を送ることは、限りなく困難なことであり、逃れたとしても、結局はその後に生き地獄を味わうだけなのである。

しかし、人というのは、特に有頂天の時、こういったデメリットに目が向かないのであって、現在、核シェルターとかで終末を乗り越えることができると思っている人、自分だけ助かってハッピーになろうと思っている人は、特に富裕層や権力層の中層部から下層部には多く居ることと思う。しかし、深慮して、現実を受け止めることができれば、それは幻の一時的逃避でしかないということも分かるだろう。なぜなら、以上の分業理論が正しいのならば、携帯電話さえ、数十億人の人が居ないと、そして、数億人の役立たずが居ないと、新たに生産することができないのだから。

だから、知恵と力を兼ね備えていると予測される富裕層と権力層の上層部は、ギリギリまで現状を維持することこそ、自分をも守ることに直結しており、平和と安定を保つことこそが自分が助かるための第一責務であることを心得ているはずなのである。

私の知恵でも導き出せるこの結論は、富裕層とか権力層の優秀な人なら分かろうだろう。しかし、彼らは慢心によって狂う可能性も高いので、これに気がついている人は、ほんの一握りではあると思う。

しかし、富裕層や権力層であるのにこのことに気がついている人は、力があって、さらに普通なら狂う状況で狂っていない相当な精神力の持ち主であることが予測されるから、世界でも相当に重要な位置を占めている人である可能性が高いように思う。

それで、こういった人々が、(アベノミクス失敗で破綻寸前の)日本にオリンピックが当るよう根回ししたり、いつ破裂してもおかしくない中国の土地バブル崩壊が起こらないように何らかの処置をしているのだと考えている。

最後は陰謀論ぽくなったが、根拠がないわけでもない。オリンピック推進委員の当事者たちが、全員「今回、勝てるとは思ってなかった」みたいなことを述べているのに、得票差は大差で勝ったというのは、とても不自然である。

また、中国バブルに関して、噂だけでも頭の悪い商売の仕方をしていることが分かる、あの中国の人たちが、金を追い求めるあまりに大失敗するのは目に見えているのに、未だに大失敗していないということもあまりにも不自然である。

この2つの不自然なことをうまく説明するためには、私の想定しているような「意志(富裕層か権力層でまともな考え方をしている人の意向)」と「強力な力」があることを想定するより他ない、と私は考えるのである。