126.荀子 現代語訳 強国第十六 一章

一章

 型が正しくて材料も良いもので鍛冶屋も巧くて火も整えられているならば、その型を開けばこれは宝剣莫邪である。けれども、屑をしっかりと落とさず砥ぐこともしないのならば、縄を切ることもできないだろう。逆に、しっかりと屑を落として砥ぐのならば銅器をも切り裂き牛馬でも切ることすら簡単にできる。

 かの国というものも強国の型を開いたのと同じなのである。けれども教誨することなく調一することもなければ、領地に入っては守ることもでききず、領地から出れば戦うこともできない。

 かの国というものにも砥ぐということがあり、礼義節奏こそがこれなのである。だから、人の命は天にあり、国の命は礼にある。君主たるものが、礼を第一のものとして貴び賢者を尊ぶのならば王者であり、法を重んじて民衆を愛すれば覇者であり、利を好んで詐欺が多いのなら危なくなり、権謀傾覆幽険ならば亡ぶこととなる。

二章

 威というものには三つのものがある。道徳の威なる者、暴察の威なる者、狂妄の威なる者である。この三威についてはしっかりと考えなければならない。

 礼楽が修まっていて、分義が明らかで、挙錯(行うこととやめること)に時があり、愛利には形がある。このようであるならば、百姓はこれを貴ぶこと帝のようであり、これを高いとすることは天のようであり、これに親しむことは父母のようであり、これを畏れることは神明のようになる。だから、賞を用いるまでもなく民衆は勤め、罰を用いるまでもなく威が行われることとなる。こういったことを道徳の威と言う。

 礼楽が修まっていなくて、分義も明らかでなくて、挙錯に時がなく、愛利に形はない。そうであるけれども、暴を禁ずることは察(細かいところまで目が届く)であり、心服しない者を誅すること審らかであり、その刑罰は重くて信があり、その誅殺するのは猛々しくて必ず行われ、家でゆっくりしているところを急に雷撃を喰らうかのようであり踏みつけて圧するかのようである。このようであるならば、百姓は脅かされているときは畏れるけれど、少しでも隙が見えれば上に対して高ぶろうとして、捕えられる可能性があるときは集まるのだけど、隙が生まれれば逃げ散って、敵の方が強いとわかれば寝返ってしまう。民衆を脅かすのに目に見えた威圧によらずに、民衆を動かそうとするのに誅殺によらなければ、民衆を保つことができない。このういったことを暴察の威と言う。

 人を愛する心などなく、人を利するような事を何もしないで、日々に人々を乱すようなことばかりして、百姓が騒がしくなると民衆を無闇に捕まえて刑罰を加えて人の心を和ませようとしない。このようであるならば、下は親近者で徒党を組んで逃げ出して上を離れることとなる。傾覆滅亡は立ちどころにして訪れるであろう。こういったことを狂妄の威と言う。

 この三威についてはしっかり熟考しなければならない。道徳の威は安強を成して、暴察の威は危弱を成して、狂妄の威は滅亡を成すのである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■今日から岩波文庫にして下巻に突入した。

■道徳の威がどんなものであるか、私は詳しくは分からない。なぜなら、これを持ち合わせている人を見たことがないし、自分もこれを持ち合わせてはいないからである。ただし、何も後ろめたさのない堂々とした人を見ると、人は畏れるものである。それは、己の良心が、己の悪行を責めるからである。