128.荀子 現代語訳 強国第十六 四章

四章

 荀卿子が、斉の相国に説いて言うには、「人に勝つだけの勢(立場、背景)があって人に勝つ道を行って、天下に憤りを感じる者がなかったのは、湯王と武王でありました。人に勝つ勢がありながら人に勝つ道を行わず、天下を保つ勢が厚かったのに、匹夫であろうとしてもそれができなかったのは、桀王と紂王でした。そうであるならば、人に勝つための勢を得ることは、その人に勝つ道には遠く及ばないのであります。

 かの君主と相国というようなものは人に勝つための勢というものです。是を是として非を非とし、能力を能力として不能不能とし、自分一人の私欲を退けて、必ずかの公道通義の道、お互いに共有できるようなその道に居ることが、人に勝つための道というものです。

 今、相国であるあなたは、上は君主を専らにすることができて、下は国専らにすることができます。あなた相国の人に勝つための勢いというものは、誠に保たれていると言えるでしょう。そうであるならば、どうしてこの人に勝つための勢に乗って人に勝つための道に赴こうとしないのですか。

 仁厚明通の君子を求めて王を託して、この人とともに国政に参加して是非を正す、このようであるならば、この国に進んで義を為さない者はいなくなりましょう。君臣上下貴賤長少の庶民に至るまでの全ての人が義を為すようになれば、この天下の皆が義に合することを望むようになるでしょう。

 賢者は相国が開く朝廷を願い、能力者は相国の授けてくださる役目を願い、利を好む民ですら斉(ここは平らかにする斉と、国名の斉の掛け言葉であると思う)に帰属することを願うようになりましょう。

 これが天下を一つにするということです。

 相国、あなたがこの道を捨てて行わず、自分の心の赴くままに、この世俗の人と何の変わりないままでいるならば、女主は宮で乱れ、詐臣は朝廷で乱れ、貪欲な役人は役目に乱れ、衆庶百姓は皆で貪利争奪を習俗としましょうぞ。こんな有様でどうやって国を保持するのですか。

 今、巨大国の楚が前にあって、大国の燕が後ろに迫り、強国の魏が右をがっちりとつかんで西境の動きが絶えないことは縄のようであり、魯人は襄賁と開陽の地を保って左に臨んでおります。

 もしも仮に一国が謀りごとを持ちかければ、三国はこの国の謀りごとに乗じて四国でこちらを攻めることになりましょう。このようになったならば斉は必ず分断されて散り散りになり、国は仮城のようになってしまいます。これでは天下の笑いものです。

 どうするのだ!人に勝つための道とそうでない道、この両者、いずれが行うに足るものなのか。

 桀王と紂王とは、聖王の後裔であり子孫であり天下を保つ者の世継ぎであり、勢籍があるところであって天下の宗室であり、土地の大なることは自分固有の領土だけでも千里、人の衆いことも数えれば億万であったけれど、すぐに天下は当たり前のようにみな桀王と紂王を去って湯王と武王のもとに走り、ひるがってみな桀王と紂王を嫌って湯王と武王を貴びました。

 これはどうしてか。かの桀と紂は何を失って、かの湯と武は何を得たのか。これは他でもありません。桀と紂はよく人から嫌われ憎まれるような事をしていたのに対して、湯と武とはよく人から好まれるようなことをしていたのです。人から嫌われ憎まれることとは何か。それは、汚れ驕り争奪貪利、これであります。では人から好まれることとは何か。それは、礼義辞譲忠信、これであります。

 今、人の君主たるものが、何かに例えてそれに親しむと言えば、湯と武を出して、彼らと並びたいと申します。そうであるのに、国を統一している根本は、桀王や紂王と何も変わらない、その上で、湯王や武王の功名を求めることはよしとできましょうか。

 だから、勝ちを得た者とは必ず人とともにする者なのです。そもそも人を得た者とは道とともにする人なのです。そうであるならば道とは何でしょうか。それは、礼義辞譲忠信これに他ありません。

 この故に、四五万以上の者は強くて勝つが、これは衆の力でなく、貴び第一とすることが信に在るからであります。数百里以上の者は安泰であるが、これは大の力でなく、貴び第一とすることが修政に在るからであります。今、既に数万の民衆を保持している者なのに、でっち上げをして徒党を組んで僅かの与え(民衆からの税)を争い、既に数百里の国を保持しているのに、汚れ驕って盗むようにして土地を争う。このようであるならば、これは自分の安泰強固の根本を棄てて、自分の危険貧弱の原因を争い、自分の足らないところをさらに損じて、自分の余りあることころをさらに重ねるようなものです。

 このように道理から外れて過ちを犯しながら、しかも湯王や武王のような功名があることを求めるならば、これをよしとすることができましょうか。これを例えてみれば、伏せて天を舐めて、首つりしている人を助けようとしてその足を引っ張るようなもので、理論として行われることすらできないのです。

 ますます務めてますます遠い。

 人の臣下たる者、自分の行いが行われないことを自分の傷としないで、ただ利益ばかりを得ようとするのならば、これは例えば刀を穴の中に放り込んで、刃が鋭利であることを求めるようなものであり、これは仁人が恥じて行わないことであります。

 つまり、人には生きることより貴いことはなく、安心するより楽しいことはなく、生を養って安心を楽しむ根本としては、礼義より大なるものはないのです。人が、生きることを貴んで安心を楽しむことを知りながら、この上で礼義を棄てるのならば、これを例えるならば、長寿でありたいと思いながら首を刎ねるようなものなのです。愚かであることこれより大なることはない。

 この故に、人の君主たる者は民衆を愛すれば安んずることができて、士を好むのならば栄えて、このどちらもないのならば亡ぶこととなる。詩経 大雅・板篇に『立派な人はこれ守り 大きな軍隊これ垣根』とはこのことを言ったものなのです。」


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

■ここは、荀子の政治に関するエッセンスが詰まっている。表現も以前の章との重複が多い。こういった理由から、この部分は、恐らく荀子が諫言を行うためにしたためたものであるか、本当に諫言した内容と一致するとして問題ないであろうと思う。また、後世で相当に荀子に熟達した人が作ったものである可能性もないことはない。

荀子は50まで世に出ず、50になって始めて遊説し、斉で用いられたと言う。そして、斉で出世したのであるが、讒言(悪い話を吹きこまれること)されて、楚へ向かったとされている。(荀子の生い立ちには異説があるみたいだが)もしも、荀子が斉に居た時、本当にこの内容を上進しただとしたら、そこには多くの教訓があると思う。正直なところ、私は、「こんなこと言えば、そら、讒言されるわ(讒言されて当然だわ)」と思った。荀子の事跡などを探っていると、荀子孔子の事跡を教訓として、自分の人生を歩んでいるように思われる節がある。われわれも荀子の事跡を教訓としなければならない。

■このように、儒学というのは、なかなか人に容れられないものなのである。しかし、分かる人には分かるであろう、この理路整然とした美しさ、この沈着不動の安定感、そしてこの信じるに足る正しさを。しかし、信じたらそれが最後で、それは茨の道を通ることを意味している。その茨の道とは、当然に、表面的、外面的なものでしかないのだけど。